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◆ あ行 ◆
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■池田屋事変(いけだやじへん) |
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元治元年6月5日夜に起きた新選組の尊攘派弾圧事件。京都三条小橋の旅宿池田屋を新選組が襲撃し、京都市中における武力蜂起を企てていた尊攘派浪士ら12人を惨殺、20余人を捕縛した。この先頭で土佐勤王党では北添佶磨、望月亀弥太、石川潤次郎が命を落としており、ほかに土佐人では藤崎八郎と野老山五吉郎が事件とは無関係ながら、巻き添えを食って斬り死にしている。 |
■いろは丸事件(いろはまるじけん) |
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海援隊の大洲藩よりの借用船いろは丸と、紀州藩船明光丸が衝突、いろは丸が沈没した事件。 慶応3年4月15日、貨物を満載したいろは丸は長崎を出港し、馬関海峡から瀬戸内海を航海中の同月23日午後11時ごろ、やはり瀬戸内海を長崎に向けて航海中の明光丸と、讃岐の箱の岬沖で濃霧のために衝突した。160トンのいろは丸は、880トンの明光丸の船首を右舷に受け浸水。明光丸は90メートルほど後退したのち、再び前進していろは丸の船腹に衝突、龍馬は乗員を明光丸に移乗させた。 龍馬と明光丸船長高柳楠之助の合議のうえで明光丸は備後の鞆に入港し、長岡健吉とともに今後の交渉に臨んだ。事件解決まで出港を見合わせるようにとの依頼を、高柳は藩命を理由に拒絶。このうえは長崎で正式談判を行い、公論によって決着をつける以外にないということになった。長崎での交渉は難航し、決着がつかなかった。龍馬はこの頃「船を沈めたそのつぐないは金を取らずに国を取る」という歌を作って、流行らせた。結局、紀州藩は大洲藩に42500両に返還し、海援隊にも年末に15345両が賠償されるとの内示があった。 |
■魚屋萬蔵宅跡(うおやまんぞうたくあと) |
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慶応3年4月24日、25日の両日、紀州藩明光丸船長高柳楠之助と坂本龍馬は、いろは丸事件についての会談を木村萬蔵(魚屋)宅二階において行なった。 写真は2004年のもので、現在は「御舟宿いろは」とうい旅館が建ってます。 |
■馬廻(うままわり) |
主君の馬のそばに従う騎馬の武士。馬廻組の略。土佐藩の身分制度では、上士の位。 |
■王政復古(おうせいふっこ) |
大政奉還と一連の政策。朝廷自らが政治を執り行う古来の体制に戻そうというもの。 |
■近江屋(おうみや) |
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京都市中京区河原町通り蛸薬師下ル西側に跡地。土佐藩用達の醤油業。主人の井口新助は龍馬を土蔵に匿っていたが、龍馬は風邪をこじらせ、母屋の二階へ移った。慶応3年11月15日、龍馬と中岡慎太郎、龍馬の下僕である藤吉は、ここ近江屋で十津川の者とななる刺客に斬られた。 |
■小栗流(おぐりりゅう) |
龍馬が14歳から修行した剣術の流派。小栗流の流祖は小栗仁右衛門といい、徳川家康の小姓小栗又市の次男だった。仁右衛門は柳生石舟斎に剣槍の極意を学ぶが、関ケ原の戦い・大阪の陣に参加した際の経験から組み打ちの必要を感じ、独自に小栗流和術を創始する。これは、剣術・和術(柔術)のほか居合・槍法・騎射・長刀・水泳・水馬などの諸般の武芸を総合したものだった。 |
■桶町千葉道場(おけちょうちばどうじょう) |
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北辰一刀流開祖千葉周作の実弟定吉が開いた道場で、現在の東京都中央区八重洲二丁目にあたる鍛冶橋北東の桶町付近にあったことから通称された。 |
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