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平成12年9月20日
 おこぜ組のおこぜとは  
 それは平成12年8月末のことでした。掲示板で、「後藤象二郎たちのグループ『新おこぜ組』のおこぜとはいったい何なんだろう?」という疑問が投げかけられました。確かに小説「竜馬がゆく」の中でも「この組織の命名は面白いのだが本題からそれる為・・」と思わせぶりな書き方を司馬先生はされています。
 当然、私は全く知りませんでした。そこで、大阪龍馬会のMr,LAWSON氏から回答がありました。



<<Mr,LAWSON氏の投稿文>>
「おこぜ組」について
 幕府は、天保12年(1841)水野忠邦の緊縮主義にしたがって政治改革を宣言した。それに合わせて土佐藩でも13代藩主豊てるが、政綱のゆるみ、財政の困窮を打破する政治改革を打ち出した。その中心人物が、馬淵嘉平です。馬淵嘉平は武芸者でしたが、単に武芸師家としてではなく、その思想や才幹による人間的な魅力があったと思われ彼に党与する者が4・50名に及んだ。馬淵の勘定方登用とともにこれらの人々も相次いで役職を与えられた。世俗は、これを見て「おこぜ組」と称した。
 「おこぜ」とは貝の一種で、これを懐中にして山に猟すれば山の幸があり、海に釣りすれば海の幸があるという迷信があった。(ちなみに、今日図書館で調べましたが「おこぜ」の名、俗称の貝はありませんでした)
 世俗は、馬淵に党する者は希望する役職を得るものとして非難を加えたのです。 あまり良い呼び方では無かったみたいです。
 「新おこぜ組」とは、安政に入り吉田東洋は大監察から参政に昇任され、山内容堂の信頼を受けて藩政の実権を握った。後藤象二郎や福岡孝弟・板垣退助その他 後世史上に名をとどめた新人達が東洋との直接、または間接の縁故によって起用され新政に参加した。世俗は、馬淵を中心とした天保の「おこぜ組」を連想して「新おこぜ組」と称したそうです。


以上、Mr,LAWSON氏の投稿文の抜粋です。
その4日後、さらにMr,LAWSON氏からの投稿がありました。
それによると、Mr,LAWSON氏は「新おこぜ組」の語源になった「おこぜ」と、いう俗称の貝を密かに調べていたそうです。何と、わざわざ「西宮市貝類館」へ行き、研究員の方に「おこぜ」について聞いてくれたのです。



<<Mr,LAWSON氏の投稿文>>
研究員の方が「俗称は、外見で名前を付ける場合が多いです。たぶん、おこぜに似ている貝でしょう。」と、言って事務所から「日本貝類方言集」なる本をわざわざ持って来られ教えてくださいました。結果、オニサザエ(鬼栄螺)の俗称であることが判明しました。帰り際には、その貝の標本まで戴きました。


Mr,LAWSONさんは写真を送ってくださいましたので、下に掲載させていただきます。確かに魚のオニオコゼに似た貝ですね。これにて、我々のたまっていたものが全てスッキリしました。Mr,LAWSONさん、ありがとうございました。
Mr,LAWSONさんからご提供頂いた「おこぜ」の写真
(写真撮影のご協力 : HORNETさん、ひめさん)



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