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松平容保
松平容保   まつだいらかたもり1835-1893 〔会津〕 2019/9/19 up
   松平容保は、18歳で会津藩の藩主となった。会津藩は初代藩主が残した掟により、全力で幕府を支えることになっていた。容保は幕府から京都の安全を守る京都守護職になるよう頼まれた。その頃、京都では尊王攘夷派による暗殺事件が多発していた。危険な役目であることを知りつつ、容保は京都守護を引き受け、配下の新撰組を使って厳しく取り締まった。ところが、容保を信頼していた孝明天皇が亡くなり、15代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返した。その後、朝廷を中心とする新政府と旧幕派との間で戦争が起きたため、容保は朝廷の敵になった。新政府軍は会津に戻った容保に激しい攻撃を開始した。多くの犠牲者を出し、力尽きた容保はついに降伏した。


松平春獄
松平春獄   まつだいらしゅんがく1828-1890 〔福井〕 2019/9/19 up
   松平慶永のこと。


松平慶永
松平慶永   まつだいらよしなが1828-1890 〔福井〕 2019/9/19 up
   文政11(1828)年、御三卿田安家に生まれ、天保9(1838)年11歳で越前福井藩三十二万石の15代藩主斉善の養嗣となる。後、藩主となり、秀才の藩士橋本佐内、中根雪江、由利公正等の人材をよく用いた。また熊本藩儒学者横井小楠を賓師として招いた。藩政改革や殖産興業を行い、幕末非常の正解を牛耳った。ペリー来航時には、開国要求に対し、強行拒絶論を提出するが、安政の頃には橋本佐内ら改革派の意見をふまえて開国貿易論を唱え、洋学振興を図った。安政3(1856)年、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城らと語らい、幕政の大改革と、一橋慶喜の将軍継嗣を主導する。しかし、安政5(1858)年4月、紀伊派の井伊直弼が大老となるや、春嶽は退けられた。井伊亡き後は政状好転して、文久2(1862)年に幕閣の政治総裁職となり、一橋慶喜と共に幕政改革をすすめてゆく。龍馬とはこのころ出会い、春嶽は龍馬を勝に紹介している。元治元(1864)年、京都守護職となったが、まもなく辞職。慶応2(1866)年の長州再征による内戦に反対する。翌年上京して四侯会議に列し、長州処分、兵庫開港問題を議したが、会議の主導権は薩長倒幕派に握られていた。春嶽は大政奉還より王政復古への大変革の中で、倒幕派と幕閣、佐幕派の間に介入して、徳川家の救済と政局の収拾に努めた。慶応4(1868)年戊辰戦争が勃発すると、内戦の拡大阻止に尽力した。維新後、議定、さらに内国事務総督となり、明治2年、民部卿に就任し大蔵卿を兼職した。その後、大学別当兼侍読となり、翌3年に辞職する。


三浦休太郎
三浦休太郎   みうらきゅうたろう1829-1910 〔紀州〕 2010/9/14 up
   紀州藩士。慶応年間に紀州藩家老代理として京都の判定で朝廷と幕府の斡旋役として活動する。
近江屋事件では、いろは丸事件に敗れた報復として龍馬の殺害を命じた黒幕との疑いを持たれ、慶応3年12月7日、宿舎の天満屋を陸奥宗光らに襲撃されるが、新撰組の護衛がついていたためにかすり傷を負ったのみで事なきを得た。
維新後は明治新政府で大蔵省、内務省などに出仕し、のちに元老院議員、貴族院議員などを歴任して、東京都知事を経て宮中顧問官をつとめた。


三岡八郎
三岡八郎   みつおかはちろう1829-1909 〔福井〕 2019/9/19 up
   由利公正のこと。


宮地彦三郎
宮地彦三郎   みやじひこさぶろう1836-1916 〔土佐〕 2024/10/12 up
   海援隊士。普請方から下横目、監察役で京都詰めとなる。文久3年2月龍馬が脱藩の罪を許され7日間謹慎を命じられたが、その折の警固役。龍馬の影響をうけて文久3年7月に判定を脱走。北添佶摩らと志士活動をする。慶応3年6月後藤象二郎を旅宿に訪ね、龍馬から海援隊に入ることを許される。以来、長岡謙吉は以下の大使として、八木彦三郎を名乗る。11月15日昼頃、近江屋の龍馬を訪ねたが、あげれと勧められたのを辞退して帰った。龍馬の遭難を知り、現場へ駆けつけた一人。
翌年1月長岡と共に新海援隊を結成。明治7年妹の病気を機に土佐へ帰国。以後、郷土の教育者として情熱を注いだ。享年78歳。


三吉慎蔵
三吉慎蔵   みよししんぞう1831-1901 〔長府〕 2000/1/5 up
   安政4(1857)年、三吉十蔵の養子になった。藩校敬業館、萩の明倫館に学び、武術は特に宝蔵院流槍術にすぐれた。文久3(1863)年、下関における外国船砲撃に関与し、大砲鋳造掛締方・精兵隊諸事肝煎をつとめた。慶応2(1866)年1月、藩命により龍馬と同行して京都に赴いた。これが両者の出会いの初めであり、間もなく伏見寺田屋で龍馬とともに幕吏に襲われたが、危地を脱出。以後、龍馬から人間的に厚く信頼され、「万一の御報知仕候時ハ、(略)愚妻おして尊家に御養置可被遺候よふ」と、お竜の将来を託された。龍馬が暗殺された時、実直にその付託にこたえ、お竜を数ヶ月間自宅に引き取って面倒をみた。維新後は、宮内庁御用掛として北白川宮家に勤めた。


陸奥宗光
陸奥宗光   むつむねみつ1844-1897 〔和歌山〕 2000/1/5 up
   陸奥陽之助。龍馬にその能力を高く買われ、「我隊中の者は大小の物を取り上ぐれば、皆路頭に立つ奴なれど、唯陸奥陽之助一人は喰ふに困る男に非ず」と評された。また、その商才も並々ではなく、龍馬から幅広し権限を与えられていた。和歌山藩の勘定奉行職の家に生まれたが、父の失脚により脱藩。文久2(1862)年、龍馬と面識を得、神戸海軍操練所に学んでのち、亀山社中に参加。龍馬が殺された時京都にいて、暗殺の黒幕と目された和歌山藩公用人三浦の宿に斬り込んだ。「坂本は近世史上の一傑物にして、其融変化の才に富める、其見識議論の高き、其他人を誘説感得するの能に富める。同時の人、能く彼の右に出るものあらざりき」と龍馬のことを評した。のちに外務大臣などを歴任した。


桃井春蔵
桃井春蔵   ももいしゅんぞう1825-1885 2019/9/19 up
   駿河で生まれ、14歳のとき江戸の志学館で鏡新明智流の剣術を学び、28歳で志学館を継いだ。武市半平太を高く評価し、塾頭に任命した。


                                       


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