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橋本左内 はしもとさない1834-1859
〔福井〕
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2019/9/19 up
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橋本左内は越前福井藩の医師のことして生まれ、大坂に出て西洋医学を学んだ。その後、江戸に出て藤田東湖らと交流し、藩に帰ってからは、藩主・松平春嶽から才能を認められ、政治をたすけた。さらに藩の学校「明道館」の責任者になり、軍を強める政策も手伝った。左内は、春嶽と同じく開国論を主張した。幕府の体制をしっかり整えたうえで、西洋の進んだ技術を取りえれていくべきだと考えた。1857年、13代将軍・徳川家定の後継ぎ問題が起こると、左内は春嶽とともに秀才と評判だった徳川慶喜をおした。しかし大老になり、権力を握った井伊直弼が、強引に徳川家茂を将軍にした。慶喜をおした左内は直弼の命令で捕らえられ、死刑になった(安政の大獄)。
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ハリス はりす1804-1878
〔米国〕
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2019/9/18 up
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日米和親条約ば結ばれて2年後の1856年、ハリスは日本に滞在するはじめてのアメリカ外交官として、下田にやってきた。ハリスが来日した目的は、日本と通商条約を結び、貿易をはじめることだった。ハリスは幕府との話し合いを開始すると、江戸城で将軍・徳川家定に会い、貿易を求めるアメリカ大統領の手紙を渡した。続いて老中・堀田正睦と通商条約について話し合いを始めるが、正睦は 孝明天皇の許可を得ることが出来ず、通商条約を結べなかった。次の交渉相手である大老・井伊直弼には、決断を迫り「日米修好通商条約」を結ばせることに成功した。
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土方歳三 ひじかたとしぞうく1835-1869
〔新撰組〕
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2000/1/5 up
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日野の家伝薬を製造する名主に生まれる。幼くして両親をなくし、義兄の佐藤彦五郎が自宅に持っていた天然理心流の道場で出稽古を受けていた。この時、近藤勇と出会う。四代目を継承した勇にしごかれ、歳三も試衛館師範代となるが、年下の塾頭沖田総司にはかなわなかった。清河八郎に応じ、勇ら試衛館仲間と浪士隊に参加したが、上洛するなり尊攘を叫ぶ清河と決別、水戸脱藩浪士芹沢鴨、新見錦らと京都に残り、会津藩預かりの新撰組を結成する。やがて歳三たち近藤派は、新撰組の評判を落としていた芹沢派を次々に粛清し、近藤局長のもと歳三は副長に収まる。池田屋騒動では別働隊を率いて、先に乗り込んだ近藤達を救援した。鳥羽伏見の戦い後、下総流山で官軍に包囲され、近藤勇が降伏。歳三は再起をと会津に逃げて勝海舟に近藤救出を依頼するが聞き入れられなかった。以後、激戦地を転戦し、榎本武揚と蝦夷箱館へ渡り、箱館戦争で戦死する。
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一橋慶喜 ひとつばしよしのぶ1837-1913
〔一橋〕
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2000/1/5 up
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徳川慶喜。
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平井加尾 ひらいかお1838-1909
〔土佐〕
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2010/9/14 up
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平井収二郎の妹。安政6年12月、山内容堂の妹の友姫が三条公睦に嫁いださいに、御付役として上洛し、公睦死後も文久2年まで三条家に仕え帰国した。 龍馬の初恋の人と目されているが、龍馬が文久3年乙女にあてた手紙では、千葉佐那と比較して、顔形は加尾が少し劣ると評しているものの、佐那が「今の平井」と同様だとしているところから、一時の恋愛対象であったことは間違いない。 慶応2年に西山志澄と結婚し娘をもうけ、のちに娘に養子を迎えて平井家を継がせている。享年72歳。
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福岡孝弟 ふくおかたかちか1835-1919
〔土佐〕
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2000/1/5 up
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生家は土佐藩の家老の支族であり、安政元(1854)年、吉田東洋の門下生となった。安政5(1858)年、東洋が藩政の中枢に復帰すると、後藤象二郎らとともに登用を受け、「新おこぜ組」と呼ばれる若手革新グループを形成した。文久2(1862)年、東洋が土佐勤王党に暗殺されたため、一時沈滞したが、文久3(1863)年、藩情の一変により回復し、後藤と並んで藩政首脳部に列した。慶応2(1866)年11月、上洛して中岡慎太郎と会し、また、西郷隆盛ら薩摩藩重臣と親しく語り合った。その結果、時勢に対する認識をあらため、龍馬や中岡の脱藩罪赦免を山内容堂を説いて、翌3年2月に実現にこぎつけた。ついで同年3月、長崎に出張し、龍馬・中岡の積極的起用を後藤象二郎と論じ、海援隊・陸援隊を藩の外郭組織として発足させるにいたった。その後、龍馬の説く大政奉還論に賛成して、種々奔走し、後藤につぐ信頼を寄せられた。維新後は新政府に出仕し、参与・参議などを歴任して、管制の整備につとめた。「五ヶ条の御誓文」の草案を由利公正と製作した。
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藤田東湖 ふじたとうこ1806-1855
〔水戸〕
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2019/9/19 up
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藤田東湖は、水戸藩の学者・藤田幽谷の子として生まれた。幽谷は歴史書「大日本史」を編集した水戸学者だった。水戸学の特徴は、尊王論が基本になっている。東湖は父と同じく水戸学者になった。その後、東湖は藩主・徳川斉昭に仕え、水戸藩の政治改革を進めたり、藩校の「弘道館」の建設を助けたりした。東湖は水戸学の尊王論に攘夷論を主張し、「弘道館記述義」などの書物を著して自分の考えを広めた。この尊王攘夷論は、幕末志士に大きな影響を与えた。黒船が日本に現れた後、幕府から海防参与に任命された斉昭をたすけるため、一緒に江戸に出たが、地震にあって圧死した。
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ペリー ぺりー1794-1858
〔米国〕
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2019/9/18 up
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アメリカの東インド艦隊司令長官。鎖国を続ける日本を開国させるという仕事を任された。ペリーは軍艦4隻を率いて浦賀に到着すると、幕府に開国を求めるアメリカ大統領の手紙を突きつけた。幕府から「返事を待ってほしい」と頼まれ、いったん日本を離れたが、7隻の軍艦を引き連れて再びやってきた。ペリーは幕府に「日米和親条約」を結ばせ、開国させることに成功した。
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堀田正睦 ほったまさよし1810-1864
〔幕臣〕
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2019/9/18 up
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1855年、佐倉藩藩主・堀田正睦は、阿部正弘から「老中首座」を譲られた。開国派と攘夷派の激しい対立をまとめてほしいと期待されてのことだった。正睦は日本を強くするには、貿易をして近代技術を取り入れるべきだと考えていたので、ハリスと通商条約を結ぶ話し合いをはじめた。さらに孝明天皇に開国を賛成してもらい攘夷派も抑え込もうとしたが、天皇は攘夷派で、説得は失敗に終わった。このため攘夷派と尊王派が結びついた尊王攘夷派に勢いが出た。その間、権力と握った井伊直弼は強引に日米修好通商条約を結び、正睦は老中をやめさせられた。
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