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高杉晋作 たかすぎしんさく1839-1867
〔長州〕
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2000/1/5 up
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吉田松陰の松下村塾に入門、久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧と高く評された。藩命で上海に渡った晋作は、列強の食い物になっている清の現状を見、攘夷の意思をさらに硬くする。下関で外国船を砲撃し反撃にあい、正規軍の軟弱さを痛感し身分によらない有志による軍事組織『奇兵隊』を結成。第二次長州征伐ではわずか2000の兵で幕府軍2万を撃退。結核を発病し、29歳の若さで病死。晋作の片腕だった伊藤博文は「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と晋作の死を惜しんだ。「おもしろきこともなき世をおもしろく」が辞世の句。
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高松太郎 たかまつたろう1842-1898
〔土佐〕
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2000/1/5 up
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母は龍馬の長姉坂本千鶴。文久2(1862)年頃、土佐勤王党に加盟し、同年8月、藩主に従って上京、大原重徳・姉小路らの公卿の邸に出入りした。文久3(1863)年1月、龍馬の斡旋により、勝海舟に師事し学んだ。一時、土佐藩吏殺害事件の嫌疑を受けて薩摩藩に潜伏し、同藩海軍の訓練にあたったりしたが、亀山社中設立以来、龍馬を助けて行動をともにした。はじめ、長崎にいたが、慶応3(1867)年頃より大阪の土佐藩定宿薩摩屋に駐在して商業活動を行った。明治4年8月20日、朝旨により「坂本直」として龍馬遺跡を相続した。
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武市瑞山 たけちずいざん1829-1865
〔土佐〕
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2000/1/5 up
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土佐勤王党の首領。武市瑞山は半平太ともいい、「春雨じゃ濡れて行こう」というセリフで有名な芝居の月形半平太のモデルといわれている。生家は土佐藩の郷士で、身分は低かったが経済的に豊かだった。江戸で桃井春蔵に入門し、やがて塾頭となる。文久元年(1861)8月、坂本龍馬らと土佐勤王党を結成、約200名の同志を得ると、参政の吉田東洋を説いて、藩を尊攘の軌道に乗せようとした。しかし、東洋は取り合おうともしなかったため、文久2年4月に、那須信吾らの刺客をおくって暗殺した。世の中も尊王攘夷に傾きまさに武市の時代を迎えたが、文久3年8月、京都で公武合体派がクーデターに成功し情勢は一変した。この時、土佐藩主山内容堂はもともと公武合体論者であったので、天皇親政論の瑞山らを捕らえて投獄、慶応元年(1865)潤5月11日に切腹を命じた。
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武市半平太 たけちはんぺいた1829-1865
〔土佐〕
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2000/1/5 up
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武市瑞山の通称。
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田中光顕 たなかみつあき1843-1939
〔土佐〕
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2011/1/8 up
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浜田辰弥。陸援隊隊士。藩家老深尾鼎の家臣で、二人半扶持の小身だった。武市瑞山に師事して剣術を修め、土佐勤皇党に加盟した。吉田東洋暗殺の主犯格那須信吾は叔父にあたる。文久3(1863)年、藩命により上京したが、龍馬らと交わって尊攘運動に奔走したため、蟄居謹慎の処分を受けた。元治元(1864)年、脱藩して長州をたより、本姓浜田を田中光顕と改名した。ついで中岡慎太郎に兄事し、薩長同盟の周旋に協力、慶応3(1867)年、陸援隊に投じてその幹部となった。龍馬が暗殺された時、いち早く現場にかけつけ、中岡の証言などを聞き取っている。維新後、新政府に出仕し、退官後は青山文庫を創立するなど、龍馬ら維新志士の顕彰につとめた。
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谷干城 たにたてき1837-1911
〔土佐〕
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2019/9/20 up
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谷干城は、土佐藩の学者の家に生まれ、23歳のとき江戸に留学した。武市半平太と知り合って尊王攘夷派になったが、1866年、藩の命令で上海に出張した時、西洋諸国の実力を知り、攘夷論を捨てた。長崎に戻った干城は、坂本龍馬や後藤象二郎と交流した。翌年、 板垣退助らとともに、薩摩藩と手を結び、武力で幕府を倒すことを目指した。戊辰戦争では新政府軍に参加して東北地方で戦った。新政府では、陸軍に入り、佐賀の乱や台湾出兵で活躍した後、1876年、熊本鎮台司令官となった。翌年、西南戦争がはじまると、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を守り抜き、新政府軍に勝利をもたらした。その後、干城は陸軍を去ったが、1885年、伊藤博文内閣で農商務大臣となり政治家としても活躍した。
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千葉定吉 ちばさだきち?-1896
〔鳥取〕
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2010/9/14 up
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陸奥国原郡荒谷村の出身。剣士。千葉周作の弟。京橋桶町付近に道場を構える一方、嘉永6年に鳥取藩の江戸屋敷に仕え、創術師範をつとめる。 龍馬の入門とほぼ同時に鳥取藩に仕官してしまったため、実際に龍馬に剣術を教えたのは息子の千葉重太郎だと思われる。 維新後の明治4年1月に家督を重太郎に譲って隠居となり、同12年に没した。
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千葉周作 ちばしゅうさく1794-1855
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2019/9/19 up
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陸奥国原郡荒谷村の出身。剣士。北辰一刀流剣術を創始し、文政5年に日本橋品川町に道場玄武館をひらいた。のち、神田お玉ヶ池に移転し、江戸の三大道場の一つに数えられた。弟の千葉定吉の道場で剣を学んだ龍馬とは直接の関係はなかったが、周作の死後の安政4、5年ごろに作られた玄武館修行者の名簿『玄武館出席大概』には龍馬の名が明記されている。
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千葉重太郎 ちばじゅうたろう1824-1885
〔鳥取〕
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2010/9/14 up
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武蔵国江戸杉乃森の出身。剣士。千葉定吉の長男。 父定吉のひらいた京橋の道場で剣術を教授、安政5年1月に定吉が龍馬に授けた「北辰一刀流長刀兵法目録」にも連署している。万延元年ごろになると定吉同様に鳥取藩に仕えるようになり、長州征伐や戊辰戦争に鳥取藩士として従軍した。 明治4年1月、定吉の隠居によって家督を相続。その後は鳥取県、開拓使、京都府などに出仕した。享年62歳。
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千屋寅之助 ちやとらのすけ1842-1893
〔土佐〕
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2001/8/24 up
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菅野覚兵衛のこと。
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天璋院 てんしょうひん1836-1883
〔将軍家〕
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2019/9/19 up
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篤姫のこと。
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徳川家定 とくがわいえさだ1824-1858
〔将軍〕
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2019/9/19 up
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ペリーが浦賀に現れた1853年6月に、12代将軍・徳川家慶が病死した。13代将軍になったのが、家慶の四男で当時30歳の徳川家定だった。家定は体が弱く、病気がちで子供がなく後継ぎが心配された。このため、家定は薩摩藩の藩主・島津斉彬の養女・篤姫と結婚することになったが、子供はできなかった。このため、次の将軍に 一橋慶喜をおす一派と、徳川家茂をおす一派が激しく争うようになった。家定は老中などに政治を任せていたが、日本との貿易を求めるアメリカ外交官のハリスに会うなど、政治の表舞台に立つこともあった。しかし、体調がさらに悪化すると、井伊直弼の指示で後継ぎを徳川家茂にすると発表し、その2ヶ月後に病死した。
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徳川家茂 とくがわいえもち1846-1866
〔将軍〕
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2019/9/19 up
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4歳で紀州藩の藩主となった徳川家茂は、13歳のとき大老・井伊直弼によって14代将軍となった。その頃、世の中は尊王攘夷派による活動で混乱していた。日本をまとめるには、朝廷と幕府が協力する必要があった(公武合体)。危機を理解した家茂は17歳で孝明天皇の妹・和宮と結婚した。翌年、家茂は京都へ行き、幕府に対して攘夷を求めていた孝明天皇に攘夷の実行を誓った。しかし朝廷は、兵庫港を開講した幕府の老中を家茂に無断で処罰した。朝廷の勝手な行動に怒った家茂は「将軍を辞める」と、朝廷を脅した。驚いた孝明天皇は、「今後は幕府に口出ししない」と約束したという。1866年、家茂は第二次長州征伐を指揮するため西日本に向かったが、その途中、大阪城で病気のため急死した。
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徳川斉昭 とくがわなりあき1800-1860
〔水戸〕
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2019/9/19 up
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徳川斉昭は、水戸藩の藩主の子として生まれ、30歳で水戸藩主を継いだ。その頃、日本近海ではヨーロッパやアメリカの船が多く現れていた。危機を感じた斉昭は、海の守りを固め、軍隊を強化し、大砲などをつくった。また、藩の学校「弘道館」をつくり、尊王攘夷の考え方を広めた。子の徳川慶喜には、早朝から夕方まできびしく勉強させた。1853年、ペリーが開国を求めると、斉昭は老中の阿部正弘から幕府に招かれ、海の守りを受け持つ「海防参与」に任命された。尊王攘夷派の斉昭は開国には反対で、大砲や軍艦を作り戦う準備をはじめた。13代将軍・徳川家定の後継ぎ問題が起こると、斉昭は子の慶喜をおしたが、徳川家茂をおす井伊直弼に敗れ、外出を禁止される罰を受けた。
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徳川慶喜 とくがわよしのぶ1837-1913
〔将軍〕
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2000/1/5 up
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江戸幕府最後の十五代将軍。水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれ、後に一橋家を告ぎ一橋慶喜となる。十三代将軍家定の継嗣問題で一橋派に擁立され、大老井伊直弼を中心とする紀州派の徳川家茂と争い敗れる。安政の大獄の折に獄中の身になるが、桜田門外の変後許され、十四代将軍徳川家茂の将軍後見職となる。家茂の死にともなって将軍となるが、薩長に討幕の密勅が出されたことを察知すると、大政を奉還し武力衝突を回避しようとする。しかし官軍は、大生復古の大号令とともに慶喜側を挑発し、鳥羽伏見の戦いとなってゆく。戊辰戦争後は謹慎がとかれ、後に公爵となる。貴族議員などを務め平穏な余生を過ごした。
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戸田雅楽 とだうた1843-1918
〔公家〕
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2011/1/9 up
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尾崎三良。三条家家士。慶応3年8月26日、三条実美の指示により長崎に赴く。30日土佐藩佐々木高行を訪ね、紹介された龍馬と意気投合し、ともに京都へ。10月16日、大政奉還後の職制案というものを龍馬に示す。この職制案が龍馬から後藤象二郎の手を経て岩倉具視に渡り、王政復古後の職制の原型となったといわれている。明治23年貴族院議員、同29年男爵。享年77歳。
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土居鉄三 どいてつぞう1838-1865
〔土佐〕
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2000/1/5 up
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岡田以蔵のこと。
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