|
伊藤助太夫 いとうすけだゆう1830-1872
〔長府〕
|
2010/5/22 up
|
長府藩長門国赤間関の大年寄。大名相手の旅館で、下関阿弥陀仏寺町にあり、「本陣」と呼ばれていた。助太夫は、のち坂本龍馬の忠告で九三と改めた。諱は盛正、自然居士と号した。「馬関商社」の構想をねっていた坂本龍馬は、才谷梅太郎の変名で慶応2年暮れから助太夫のもとに寄寓し、伊藤家を本拠に東西へ飛び回った。 慶応3年2月、長崎からお竜をつれてきて、夫婦水入らずの生活も楽しんでいる。龍馬夫婦が借りた座敷には「自然堂」の額がかかっていたので、龍馬も自然堂と号した。助太夫と近くの稲荷町遊郭に遊び夫婦痴話喧嘩をくりひろげたり、馬関風流人たちの歌会に誘われたりしている。慶応2年12月、龍馬が蝦夷開発を計画したとき助太夫も援助した。慶応3年4月、龍馬は小曾根家から借用した600両の一部を、伊藤家への返済に充てているが、この伊藤家の借金は前年10月、蝦夷開発に使うつもりで海援隊が購入した大極丸に関わるものではなかったかと思われる。 お竜お竜は、龍馬暗殺の悲報を伊藤助太夫邸で聞いている。
|
|
伊藤博文 いとうひろぶみ1841-1908
〔長州〕
|
2010/5/22 up
|
通称俊輔。長州の貧農の家に生まれた。松下村塾に学んだ後、尊皇攘夷運動に身を投じ、維新後に初代内閣総理大臣になった。四国艦隊の長州藩攻撃で惨敗したとき、停戦交渉で外交手腕を発揮した。幕府の第一次長州征伐にたいしては断固として対抗し、長州藩の存在をアピールした。明治政府では、条約改正の予備交渉の使命を帯びた岩倉使節団に参加して欧米へ渡った。帰国後、岩倉使節団の首脳は、西郷が推す「征韓論」を退けて主導権を握るが、伊藤は漸次立憲体制へと移行する考えを打ち出した。明治14年の政変で大隈重信を追放し、国会開設を約束した詔勅を発布した。内閣制度を創設すると、初代首相に就任。
|
|
桂小五郎 かつらこごろう1833-1877
〔長州〕
|
2000/1/5 up
|
木戸孝允のこと。長州萩の藩医・和田昌景の子として生まれた。8歳のとき、長州藩士・桂孝古の養子となったが、養父がすぐに死亡したため、生家で育った。17歳のとき、萩で吉田松陰から山鹿流兵学を教えられた。松下村塾では学ばなかったが、松陰の高弟と見られている。20歳のとき、自費で江戸に遊学、斉藤弥九郎の道場に入門し、後年塾頭となる。長州藩の外交担当として惨劇をさけて選考し活躍し、維新の三傑と呼ばれている。
|
|
木戸孝允 きどたかよし1833-1877
〔長州〕
|
2000/1/5 up
|
桂小五郎のこと。
|
|
久坂玄瑞 くさかげんずい1840-1864
〔長州〕
|
2000/1/5 up
|
吉田松陰の開いた松下村塾最初の入門者で、幼なじみの高杉晋作と「松門の双璧」と称され、松陰からも「長州第一の人物」と高く評価された。藩論を公武合体から尊皇攘夷に一変させ、イギリス公使館焼き討ち事件・下関の外国船砲撃などに参加し、奇兵隊の元となる光明寺党を結成する。八・一八の政変では尊攘派七卿を伴い都落ちする。禁門の変では指揮をしていたが、鉄砲で打たれ負傷しもはやこれまでと自刃する。
|
|
高杉晋作 たかすぎしんさく1839-1867
〔長州〕
|
2000/1/5 up
|
吉田松陰の松下村塾に入門、久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧と高く評された。藩命で上海に渡った晋作は、列強の食い物になっている清の現状を見、攘夷の意思をさらに硬くする。下関で外国船を砲撃し反撃にあい、正規軍の軟弱さを痛感し身分によらない有志による軍事組織『奇兵隊』を結成。第二次長州征伐ではわずか2000の兵で幕府軍2万を撃退。結核を発病し、29歳の若さで病死。晋作の片腕だった伊藤博文は「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と晋作の死を惜しんだ。「おもしろきこともなき世をおもしろく」が辞世の句。
|
|
三吉慎蔵 みよししんぞう1831-1901
〔長府〕
|
2000/1/5 up
|
安政4(1857)年、三吉十蔵の養子になった。藩校敬業館、萩の明倫館に学び、武術は特に宝蔵院流槍術にすぐれた。文久3(1863)年、下関における外国船砲撃に関与し、大砲鋳造掛締方・精兵隊諸事肝煎をつとめた。慶応2(1866)年1月、藩命により龍馬と同行して京都に赴いた。これが両者の出会いの初めであり、間もなく伏見寺田屋で龍馬とともに幕吏に襲われたが、危地を脱出。以後、龍馬から人間的に厚く信頼され、「万一の御報知仕候時ハ、(略)愚妻おして尊家に御養置可被遺候よふ」と、お竜の将来を託された。龍馬が暗殺された時、実直にその付託にこたえ、お竜を数ヶ月間自宅に引き取って面倒をみた。維新後は、宮内庁御用掛として北白川宮家に勤めた。
|
|
吉田松陰 よしだしょういん1830-1859
〔長州〕
|
2019/9/19 up
|
長州藩の藩士の子に生まれた松陰は、6歳で親類の吉田家の養子になった。叔父・玉木文之進が開いた松下村塾で兵学を学ぶと、すぐに理解して覚え、9歳で藩の学校の「明倫館」で兵学を教えるまでになった。松陰が13歳の時、強国だと思っていた清(中国)がイギリスと戦争して大敗し、西洋の強さを知った。この頃、尊王攘夷論が長州藩にも広まっていたが、松陰は「そもそも日本が強くなければ攘夷は行えない」と考えた。そこで松陰は江戸を出て、佐久間象山の塾に入門し、西洋の兵学などを学んだ。22歳の時、藩を勝手に抜け出して宮部鼎蔵と東北地方を旅して見分を広めた。1854年にはペリーの黒船に乗り込んで、アメリカに行こうとしたが失敗した。幕府の役人につかまった松陰は長州藩に送り返された。
|