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  ◆    薩摩    ◆

有馬新七
有馬新七   ありましんしち1825-1862 〔薩摩〕 2019/9/19 up
   有馬新七は、薩摩藩の武士で、剣術と学問の両方を身に着けた後、江戸に出た。1856年、尊王攘夷派の学者・梅田雲表と出会って大きない影響を受け、志士として活動をはじめた。井伊直弼の政治に反対し、水戸藩の藩士らとともに直弼を襲う計画を立てたが失敗し、薩摩に戻った。1862年、島津久光が幕府に公武合体を求めるため江戸に向かう事になった新七は、過激な尊王攘夷派の志士を全国から集め、京都所司代を襲う計画を立てた。新七らは、伏見の寺田屋で作戦会議を開いたが、これを知った久光は、同じ薩摩藩士たちを送り込み、計画を中止するように説得させた。しかし新七は聞く耳をもたなかったため、激しい斬りあいとなり、新七ら8名の総脳攘夷派の志士が殺害された。


大久保利通
大久保利通   おおくぼとしみち1830-1878 〔薩摩〕 2000/1/5 up
   西郷隆盛、木戸孝允とともに明治維新の三傑と称される。しかし、他の二人とは異質で、冷徹なほど現実的であり、情と義の世界に生きる西郷とはあまりにも対照的なリアリストぶりゆえに、日本人の間ではあまり人気がない。利通は薩摩藩の下級武士の家に生まれた。祖父も父も学問や仏教に打ち込む進歩的な才人であり、家庭は常に開明的な雰囲気だった。青年期には武術の腕を磨くよりも中国の精神修養の書物を読みふけり、討論を好んだ。本格的な活動は、島津斉彬のもとで尊皇攘夷派のリーダー的存在となることから始まり、斉彬の死後は島津久光の政治手腕を見抜き、その知遇を得ることで自らの地位を確実なものにしていった。久光の藩改革では、つねに優秀な策士として薩摩藩を動かした。慶応三(1867)年、岩倉具視と結んで倒幕の密勅を得る。
維新後の新政府では、より実際的な政治家として数々の新体制作りに参加した。参与、内閣事務掛、総務極顧問などを歴任する一方で、木戸孝允らとともに尽力して、まず版籍奉還を推進した。さらに廃藩置県によって、政府が全国を統治下に置くという政治の基本的構図を完成させた。一方、幕末からの重要課題であった条約改正にも取り組み、岩倉使節団を海外に派遣するなどしたが、改正は実現しなかった。その後、参議と初代内務卿を兼任したが、征韓論をめぐって幼少時代からともに時代を生きてきた西郷隆盛と対立、明治十(1877)年の西南戦争は、私情を交えぬ彼らしいやり方でこれを武力鎮圧した。しかし、西郷のシンパたちの激情を招き、東京紀尾井坂で暗殺された。47歳であった。


小松帯刀
小松帯刀   こまつたてわき1835-1870 〔薩摩〕 2000/1/5 up
   薩摩藩の出身者としては、西郷隆盛についで龍馬から信頼を寄せられた人物。島津久光の藩政後見のもとで、文久2(1862)年家老にのぼったが、もっぱら京都藩邸に駐在して藩の外交の任にあたった。龍馬と交際が始まったのは、元治元(1864)年、神戸海軍操練所の閉鎖が決定的になった時のことで、勝海舟より龍馬らの身柄を預けられ、その約束の履行に西郷と率先挺身した。薩長同盟の際も、藩論をその方向にまとめ、締結の責任者の役を果たすなど、種々尽力した。また、龍馬がお竜と新婚旅行に出かけたとき、鹿児島の宿を提供したのも帯刀だった。さらに、龍馬が亀山社中を結成した折も、西郷とはかって三両二分の生活費を支給するなど、後援の手をさしのべた。維新政府に出仕し、版籍奉還の事業に参画したが、大阪で病没。


五代友厚
五代友厚   ごだいともあつ1835-1885 〔薩摩〕 2001/8/30 up
   薩摩藩儒五代直左衛門秀尭の二男として出生。幼名才助。父秀尭は琉球貿易にも関与し実業の手腕があり、才助にも親譲りの才質があった。十三歳の時才助は、書院勤めの父の預かった世界地図を模写して藩主斉彬仁献上した。安政元(1854)年郡方書役となり、翌年選ぱれて幕府の長崎海軍伝習所に入り学ぶ。文久二(1862)年幕艦千歳丸で長州藩士高杉晋作らと上海に渡り、英国の植民地と化した清国の状況をつぶさに見る。帰途ドイツ船(天祐丸)を購入、船長として帰国した。翌年の薩英戦争で、才助は英国軍の捕膚となる。横浜で釈放されて長埼に帰り、英国商人クラバーの元に潜伏。開国通商論者上して攘夷派に狙われた。のち留学生をヨーロッパに派遣することを薩摩藩に建議して採用され、慶応元(1865)年正月、クラバーの斡旋で、留学生十五人に通訳らを合わせ、計十八人でイギリスに渡抗した。翌年帰国し、御納戸奉行格、御用人席外国掛となった。才助と龍馬との接触はこの頃からで、慶応2年7月長崎で会い、大洲藩所有のいろは丸を海援隊のチャーター船として世語した。同年11月才助は龍馬と共に下関へ赴き、長州の広沢真臣と三者で薩長合弁商社の設立を企てたが、これは実現しなかった。慶応3(1867)年春仁突発した、いろは丸衝突沈没事件の際、紀州藩は五代に伸裁を依頼した。土佐側後藤象二郎、紀州藩代表茂田一次郎との問で会談し、五代の裁配により賠償金八万三千両(龍馬没後、七万両を受領)で決着した。明治元(1868)年五代は新政府の参与兼外国事務掛に取り立てられたが、政界官界に入るのを望まず下野し、経済人として関西を舞台に活躍した。大阪にあって、株式取引所、商法会議所(大阪商工会議所)、大阪商業講習所(のち大阪商科大学、大阪市立大学)、大阪為替会社、大阪造幣局など各機関の設立に尽力。自らも製鋼、貿易、鉄道、桟橋設営等に参画した。大阪製鋼、関西貿易社、阪堺鉄道などの企業を経営し、聞西の産業実業の近代化に大きな功績を残した。経済人でもあった龍馬のあとを継ぎ、近代化事業を手広く果たし、渋沢栄一と双璧をなす存在であった。


西郷隆盛
西郷隆盛   さいごうたかもり1827-1877 〔薩摩〕 2010/5/22 up
   薩摩の下級藩士として生まれたが、藩主島津斉彬に取りたてられ、側近として活躍した。斉彬の命により将軍継承問題に関与し一橋慶喜擁立に動くが、大老井伊直弼の安政の大獄により幕府の弾圧を受け大島に配流された。3年後にゆるされ帰国したが、島津久光(斉彬の異母弟・斉彬の次の藩主忠義の父)とそりが合わず、徳之島、さらに南の沖永良部島まで流される。2年後にゆるされ軍賦役となり、公武合体を推し進める薩摩藩を代表して活躍する。禁門の変・第一次長州征伐では幕府方として長州と戦った。この頃勝海舟から龍馬を紹介され、公武合体から倒幕へと考えを変えるきっかけとなる。第二次長州征伐の頃、龍馬の斡旋で長州藩の木戸孝允と薩長連合の盟約を結んだ。以後、討幕の方針をとり、維新軍の総帥として鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、函館戦争を戦った。官軍による江戸総攻撃の前には勝海舟と会談し、江戸城の無血開城を実現させた。維新後、政府に征韓論を潰された西郷は鹿児島へと帰郷し私学校を設立する。このころ各地で不平士族の乱が続発したが、西郷はその動きに呼応しなかった。しかし、大久保利通は旧薩摩藩士の暴発を恐れ、密偵を鹿児島に送り私学校生徒らと西郷の離間を謀ったがこれがきっかけとなり西南戦争が勃発。西郷軍は熊本城を陥落させることが出来ず、明治10年(1877)城山にて自決。


島津斉彬
島津斉彬   しまずなりあきら1809-1858 〔薩摩〕 2019/9/19 up
   薩摩藩の藩主の子に生まれた島津斉彬は、子供の頃から秀才で、西洋の化学などを学んだ。斉彬は43歳で藩主になると、軍事力を近代化し、新しい産業を育てるため集成館という大工場群をつくった。鉄鋼や兵器、ガラスなどの生産を、完成した軍艦を幕府に贈った。斉彬は身分の低い西郷隆盛の才能を見抜いて起用し、藩の政治を改革した。また、藩だけではなく幕府の政治にも関わった。幕府と朝廷が協力関係を築き(公武合体)、軍事力を備えて国を守るべきと主張した。養女・篤姫と将軍・徳川家定を結婚させ、次期将軍には秀才と評判だった徳川慶喜をおした。しかし、大老・井伊直弼は徳川家茂を将軍にすると、逆らう者を処罰した。怒った斉彬は、兵を率いて江戸に向かおうとしたが、突然病死した。


島津久光
島津久光   しまずひさみつ1817-1887 〔薩摩〕 2000/1/5 up
   薩摩藩国父。大政奉還が実現した翌日、龍馬が起案した「新官制擬定所」に山内容堂・松平慶永らと並びその名があげられている。薩摩藩主島津斉興の第三子で、生母は斉興の側室お由良。兄島津斉彬の遺言によって藩主となった我が子忠義を後見し、「国父」と呼ばれて藩政の実験を握った。兄斉彬のやり方を踏して、中央政権進出を志向し、文久2(1862)年に挙兵上京する。伏見寺田屋に集合した尊攘派を武力弾圧して公武合体路線の旗幟を鮮明にするとともに、朝廷から幕政改革命令を引き出すことに成功した。同年、一橋慶喜が将軍後見に、松平慶永政治総裁職に就任した一連の幕政改革は、上の勅旨を奉じて江戸に赴いた久光の働きによるとこらが大きい。だが、その帰途、家臣がいわゆる生麦事件をおこし、久光の意図とは逆に国内の攘夷熱を煽り立てることになった。ついで、生麦事件にたいするイギリスの報復として、薩英戦争が生じ、その過程で西郷隆盛・大久保利通らの倒幕派が成長し、藩政に対する久光の影響力はしだいに弱体化した。慶応3(1867)年5月、長州処分などに関する四侯会議が狂とで開かれ、それが幕末政局における久光の最後の活躍の場となった。だた、四侯会議は失敗に帰し、それを境に武力倒幕が勢いを増した。維新後は政府の開明政策に反対し、明治8年、官を辞して正解から引退した。


吉井幸輔
吉井幸輔   よしいこうすけ1827-1891 〔薩摩〕 2011/1/9 up
    吉井友実。薩摩藩士。慶応2年1月、寺田屋での遭難で、事件を聞いた西郷隆盛が伏見に駆けつけようとするのを制して馬で急行し、龍馬とおりょうが京都に向かう際には一小隊の警護をつけた。3月の龍馬とお竜の鹿児島行にも同行して、屋敷に滞在させ、湯治旅行にも同行している。近江屋事件では田中光顕とともに現場に駆けつけた。維新後は元老院議官などをつとめ、天皇の側近に仕えた。享年65歳。


                                       


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