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伊藤甲子太郎 いとうかしたろう1835-1867
〔御領衛士〕
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2019/9/20 up
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近藤勇は、新選組をさらに強くするため、腕の立つ剣士を集めていた。江戸で北辰一刀流の道場を開いていた伊藤甲子太郎は、新撰組の対し・藤堂平助に誘われて、新選組に入隊した。常陸出身の甲子太郎は、水戸藩で水戸学を学んだ尊王攘夷論者だった。実力を認められた甲子太郎は、新選組の参謀になった。しかしすぐ、幕府に忠実な勇とは考え方が違う事に気づいた。1867年3月、甲子太郎は孝明天皇を守るための部隊「御領衛士」をつくり、平助らとともに新選組を離れた。しかし新選組の掟では、組を抜けることは許されなかった。甲子太郎はから宴会に招かれ、酒を飲まされた後、その帰り道に、新選組隊士に暗殺された。甲子太郎の遺体を引き取りに来た平助も、待ち伏せしていた大使によって殺された(油小路事件)。
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沖田総司 おきたそうじ1844-1868
〔新撰組〕
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2000/1/5 up
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9歳の時、天然理心流の近藤周助の内弟子となり、瞬く間に免許皆伝。18歳には塾頭として出稽古を任された。後に天然心流四代を継承した近藤勇は総司を五代目に指名している。初期の新撰組は、近藤勇・土方歳三体制が整うまで粛清が繰り返された。総司も芹沢鴨の暗殺に加わった。池田屋事件では、近藤ら5名と池田屋へ乗り込み長州の吉田稔麿を討った。鳥羽伏見の戦いでは、狙撃された近藤と療養していて、戦場に立てぬ体となっていた。総司は、維新後にひっそりと病床でその生涯を閉じた。 画像は総司の写真ではなく、姉のミツの孫がとても総司に似ているということで、総司の肖像画を描かせたものです。
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近藤勇 こんどういさみ1834-1868
〔新撰組〕
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2000/1/5 up
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武州多摩郡で組頭を努める富農家の三男に生まれる。天然理心流の近藤周助に出稽古を受けていたが、17歳のとき周助の養子となる。間もなく四代目師範を継承。清河八郎に呼応し、試衛館門下の土方歳三・沖田総司らと浪士隊六番隊として上洛する。京都で攘夷宣言した清河と別れて、水戸脱藩浪士芹沢鴨、新見錦らと会津藩預かりの新撰組を結成する。やがて新撰組の評判を落としていた芹沢派を次々に粛清し、厳しい規則「局中法度」を定め畏怖される存在となる。池田屋事件では沖田総司らわずか5名で乗り込み、壮絶な斬り合いをして全国へ新撰組の名を轟かせた。伏見で元新撰組伊藤甲子太郎暗殺の復讐で襲撃され、鳥羽伏見の戦いへは参加できなかった。勝海舟の工作で甲陽鎮撫隊を組織させられ甲府へと向かうが、甲府は板垣退助の討伐軍に押さえられていた。敗走した勇は、徹底抗戦を主張する盟友土方歳三と決別し、下総流山で官軍へ降伏する。坂本龍馬暗殺の汚名を着せられた勇は、切腹も許されず板橋の刑場で斬首された。
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土方歳三 ひじかたとしぞうく1835-1869
〔新撰組〕
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2000/1/5 up
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日野の家伝薬を製造する名主に生まれる。幼くして両親をなくし、義兄の佐藤彦五郎が自宅に持っていた天然理心流の道場で出稽古を受けていた。この時、近藤勇と出会う。四代目を継承した勇にしごかれ、歳三も試衛館師範代となるが、年下の塾頭沖田総司にはかなわなかった。清河八郎に応じ、勇ら試衛館仲間と浪士隊に参加したが、上洛するなり尊攘を叫ぶ清河と決別、水戸脱藩浪士芹沢鴨、新見錦らと京都に残り、会津藩預かりの新撰組を結成する。やがて歳三たち近藤派は、新撰組の評判を落としていた芹沢派を次々に粛清し、近藤局長のもと歳三は副長に収まる。池田屋騒動では別働隊を率いて、先に乗り込んだ近藤達を救援した。鳥羽伏見の戦い後、下総流山で官軍に包囲され、近藤勇が降伏。歳三は再起をと会津に逃げて勝海舟に近藤救出を依頼するが聞き入れられなかった。以後、激戦地を転戦し、榎本武揚と蝦夷箱館へ渡り、箱館戦争で戦死する。
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