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篤姫 あつひめ1836-1883
〔将軍家〕
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2019/9/19 up
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篤姫は、薩摩藩の藩主・島津斉彬の養女。1856年22歳のとき13代将軍・徳川家定と結婚した。斉彬は、篤姫が家定の子を産むことで自分の発言力が強まり、自分のおす一橋慶喜が次の将軍になりやすくなるはずだと考えていた。ところが、結構ん後わずか2年で家定は病死し、次の将軍は慶喜ではなく、徳川家茂に決まった。さらに、島津斉彬も病死した。薩摩藩からもどってくるように伝えられたが、篤姫の心は、いつしか徳川家を守りたいという気持ちに変わっていた。その後、薩摩を中心とする新政府軍と旧幕府軍との間で戦争がはじまると、篤姫は江戸城の攻撃をしないよう、新政府軍の西郷隆盛に頼むなど、最後まで徳川家のためにつくした。
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阿部正弘 あべまさひろ1819-1857
〔幕臣〕
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2019/9/18 up
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18歳で福山藩藩主になった阿部正弘は、江戸幕府12代将軍・徳川家慶に能力を認められ、25歳で最高職の「老中」になった。そんな中、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀へやって来て通商を求められた。正弘は翌年、アメリカと日米和親条約を結んで開国した。その後、攘夷派と開国はが激しく対立する中、正弘は病気のため急死した。
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安藤信正 あんどうのぶまさ1819-1871
〔幕臣〕
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2019/9/19 up
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1860年、天皇の許可を得られないまま・「日米修好通商条約」を結んだ井伊直弼が、尊王攘夷派に殺された。直弼の跡を継ぎ、老中についたのが磐木平藩の藩主の安藤信正だった。信正は朝廷と幕府の対立をなくし、協力関係を築くことで、世の中の混乱をおさめようとした(公武合体)。1862年、14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮を結婚させることに成功した。しかし、これに怒った尊王攘夷派の志士たちが、江戸城の坂下門外で信正を襲った(坂下門外の変)。信正は助かったが、背中に傷を受けたことで武士らしく戦わなかったとして、老中を辞めさせられた。
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井伊直弼 いいなおすけ1815-1860
〔幕臣〕
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2019/9/18 up
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1858年、アメリカは幕府に通商条約を結ぶことを求めていたが、孝明天皇が許さなかった。そんな中、彦根藩の藩主の井伊直弼が大老に選ばれた。直弼は日米修好通商条約を結ぶことを決断した。不平等条約であったが、断って戦争になれば日本が負けるのは明らかだった。そして、次期将軍をめぐる後継問題では、徳川家茂を選んだ。直弼は激しい批判を浴びたが、反対者100名以上を処罰した(安政の大獄)。うらみを買った直弼は、江戸城の桜田門外で尊王攘夷派の志士におそわれ、殺された。
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今井信郎 いまいのぶお1841-1918
〔見廻組〕
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2001/8/24 up
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見廻組隊士(与頭)。父は幕府御中間・今井安五郎。直心影流剣術を榊原鍵吉に、汲心流柔術を窪田治部右衛門もしくは泉太郎に学ぶ。嘉永3(1850)年部屋住みから御中間に召し出され、安政4(1857)年御用方書物調役、晩年元(1860)年講武所取締を兼任、文久3(1863)年神奈川奉行支配定番役、慶応元(1865)年同取締役に進む。慶応2(1866)年二丸火乃番となり、上州岩鼻陣屋剣術教授を兼任する。同3(1867)年5月、見廻組入りを命じられ、10月に上洛して今出川千本に寄宿する。同年11月15日の坂本龍馬殺害事件に関する兵部省あるいは刑部省での供述では、近江屋の階下にあって外部からの敵に備える役割だったと主張しているが、事実は殺害を担当する四人のうちの一人に選ばれたらしい。戊辰戦争に際して、鳥羽・伏見の戦いに敗走して江戸に帰り、古屋作左衛門らと衝鉾隊を組織して頭並隊長となり北関東、北越、会津などに転戦。しまいに箱館で降伏し、津軽・蓮華寺に謹慎の後、明治2年も兵部省軍務局糾問所の牢に入れられる。同3年2月兵部省で坂本殺害に関する取り調べを受け、引き続き5月には刑部省においても糾問を受ける。9月20日になって判決が出て、静岡藩へ引渡しのうえ禁錮となる。同5年1月6日特旨をもって赦免となり、同8年から官途に出仕したが、10年6月に辞して、翌年、牧之原に入植する。
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榎本武揚 えのもとたけあき1836-1908
〔幕臣〕
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2000/1/5 up
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直参旗本の家に生まれ、洋学の英才教育を受けて育つ。長崎海軍伝習所開設とともに入所。築地軍艦操練所の教授を経た後、オランダに留学。帰国後、幕府海軍の軍艦奉行に任じられるが、まもなく大政奉還、王政復古の大号令で幕府は崩壊する。鳥羽伏見の戦いに敗れ、大阪城を脱出した徳川慶喜を江戸まで送り届けた。江戸無血開城後、新政府軍は武揚に軍艦引渡しを迫ったがこれを拒否、軍艦四隻を率いて江戸から脱走した。途中、東北戦争に敗れた陸軍奉行大鳥圭介、土方歳三らと仙台で合流し、蝦夷に上陸。武揚は五稜郭を本営として蝦夷共和国を樹立し、入札により総裁となる。しかし、新政府軍約8000人が蝦夷に上陸、これをわずか3000人で対抗し、五稜郭に篭城した後降伏する。武揚は入獄するが、黒田清隆・西郷隆盛・福沢諭吉らによる助命嘆願によって二年半で特赦となり、北海道開拓史四等出仕を命ぜられた。その後海軍中将、特命全権ロシア大使、外務大輔、海軍卿、清国大使、逓信大臣、農商務大臣、文部大臣、外務大臣を歴任し、明治日本の発展に貢献した。
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大久保一翁 おおくぼいちおう1817-1888
〔幕臣〕
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2019/9/20 up
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旗本の家臣の事して生まれた大久保一翁は、老中・阿部正弘に認められ、幕府の重要な仕事を任されるようになった。ペリーが来航したとき、勝海舟が出した意見書を、高く評価したのが一翁だった。一翁は、尊王攘夷派の志士たちを、むやみに取られることを好まず、長州征伐にも反対した。それよりも、日本の将来を考え、朝廷と幕府が手を結ぶ「公武合体」や、朝廷に政権を返す「大政奉還」を主張していた。一翁の考えは海舟にも大きな影響を与えた。戊辰戦争がはじまると、一翁は海舟は山岡鉄舟らとともに、江戸での戦争をさけるように力を尽くし、成功した。徳川慶喜の跡を継いだ、徳川家達が、徳川家ゆかりのある静岡に向かうと、一翁もそれに従った。その後、新政府から呼び出された一翁は東京府知事などをつとめた。
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和宮 かずのみや1846-1877
〔将軍家〕
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2019/9/19 up
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孝明天皇の妹・和宮は6歳のとき有栖川宮熾仁親王と婚約した。しかし、公武合体のため婚約を解消し、14代将軍・徳川家茂と結婚することが決められた。最初は断った和宮だったが、兄の苦しむ顔を見て、結婚を決意した。江戸城に入った和宮は、徳川家定の妻・篤姫につらくあたられたという。しかし、和宮とおなじ17歳の家茂は、和宮をいたわり、やさしかった。和宮も、まじめな家茂を愛するようになった。二人の結婚生活は、家茂の急死によって4年で終わったが、和宮は朝廷に戻らず、徳川家に残った。幕府が倒れた後、新政府軍が江戸城に迫った時、和宮は「徳川家を滅ぼすなら自分も死ぬ覚悟」と伝え、攻撃を中止させるために力を尽くした。その後、京都に戻り、再び東京へ戻った。
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勝海舟 かつかいしゅう1823-1899
〔幕臣〕
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2000/1/5 up
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江戸本所の貧しい旗本の家に生まれた。西洋兵学を学ぶために、蘭語を習得。大久保一扇に見出され、幕臣となる。長崎に海軍伝習所を開設、江戸に戻り軍艦操練所の教授方頭取に就任。日米修好通商条約批准のため咸臨丸の船長として渡米。帰国後、海軍奉行に任じられる。文久2年(1862)10月、初対面の坂本龍馬をその場で門下生とし、後に神戸海軍操練所を設立したとき龍馬を(私塾の)塾頭にする。ところが尊攘派の志士までも入門させたことから、海軍奉行を解任させられる。失脚した勝は、龍馬たちのことを薩摩の西郷隆盛に託した。鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が朝敵として江戸に帰還したとき、海舟は戦火の危機に見舞われる江戸を守るべく、慶喜に恭順を誓わせ、全権を委任され西郷隆盛と江戸薩摩藩邸で会見し、江戸無血開城を果たした。
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佐々木只三郎 ささきたださぶろう1833-1868
〔見廻組〕
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2019/9/20 up
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会津藩の藩士の子として生まれた佐々木只三郎は、親類の旗本の養子となり、剣術を学んだ。その腕前は「小太刀をとったら日本一」と言われ、幕府の剣術訓練で教師をつとめるほどだった。幕府が将軍警護のために浪士の結成を決めると、只三郎は隊士を募集した。ところが「浪士組をつくろう」と言い出した清河八郎は「本当の目的は尊王攘夷の実行だ」と宣言し、仲間ともに江戸に向かった。近藤勇らは反発して京都に残った只三郎は、近藤勇らを京都守護職・松平容保の配下として働けるように取り計らった。八郎の計画を知った幕府は、只三郎に八郎暗殺命じた。江戸にもどった只三郎は、八郎を切り殺した。その後、京都にもどった只三郎は、京都見廻り組を率いて新選組とともに、京都の尊王攘夷派の志士を取り締まった。1868年、鳥羽・伏見の戦いがはじまると、只三郎は旧幕府軍として戦ったが、銃弾を受けて重傷を負い、逃げる途中に死亡した。
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天璋院 てんしょうひん1836-1883
〔将軍家〕
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2019/9/19 up
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篤姫のこと。
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徳川家定 とくがわいえさだ1824-1858
〔将軍〕
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2019/9/19 up
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ペリーが浦賀に現れた1853年6月に、12代将軍・徳川家慶が病死した。13代将軍になったのが、家慶の四男で当時30歳の徳川家定だった。家定は体が弱く、病気がちで子供がなく後継ぎが心配された。このため、家定は薩摩藩の藩主・島津斉彬の養女・篤姫と結婚することになったが、子供はできなかった。このため、次の将軍に 一橋慶喜をおす一派と、徳川家茂をおす一派が激しく争うようになった。家定は老中などに政治を任せていたが、日本との貿易を求めるアメリカ外交官のハリスに会うなど、政治の表舞台に立つこともあった。しかし、体調がさらに悪化すると、井伊直弼の指示で後継ぎを徳川家茂にすると発表し、その2ヶ月後に病死した。
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徳川家茂 とくがわいえもち1846-1866
〔将軍〕
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2019/9/19 up
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4歳で紀州藩の藩主となった徳川家茂は、13歳のとき大老・井伊直弼によって14代将軍となった。その頃、世の中は尊王攘夷派による活動で混乱していた。日本をまとめるには、朝廷と幕府が協力する必要があった(公武合体)。危機を理解した家茂は17歳で孝明天皇の妹・和宮と結婚した。翌年、家茂は京都へ行き、幕府に対して攘夷を求めていた孝明天皇に攘夷の実行を誓った。しかし朝廷は、兵庫港を開講した幕府の老中を家茂に無断で処罰した。朝廷の勝手な行動に怒った家茂は「将軍を辞める」と、朝廷を脅した。驚いた孝明天皇は、「今後は幕府に口出ししない」と約束したという。1866年、家茂は第二次長州征伐を指揮するため西日本に向かったが、その途中、大阪城で病気のため急死した。
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徳川慶喜 とくがわよしのぶ1837-1913
〔将軍〕
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2000/1/5 up
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江戸幕府最後の十五代将軍。水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれ、後に一橋家を告ぎ一橋慶喜となる。十三代将軍家定の継嗣問題で一橋派に擁立され、大老井伊直弼を中心とする紀州派の徳川家茂と争い敗れる。安政の大獄の折に獄中の身になるが、桜田門外の変後許され、十四代将軍徳川家茂の将軍後見職となる。家茂の死にともなって将軍となるが、薩長に討幕の密勅が出されたことを察知すると、大政を奉還し武力衝突を回避しようとする。しかし官軍は、大生復古の大号令とともに慶喜側を挑発し、鳥羽伏見の戦いとなってゆく。戊辰戦争後は謹慎がとかれ、後に公爵となる。貴族議員などを務め平穏な余生を過ごした。
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一橋慶喜 ひとつばしよしのぶ1837-1913
〔一橋〕
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2000/1/5 up
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徳川慶喜。
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堀田正睦 ほったまさよし1810-1864
〔幕臣〕
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2019/9/18 up
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1855年、佐倉藩藩主・堀田正睦は、阿部正弘から「老中首座」を譲られた。開国派と攘夷派の激しい対立をまとめてほしいと期待されてのことだった。正睦は日本を強くするには、貿易をして近代技術を取り入れるべきだと考えていたので、ハリスと通商条約を結ぶ話し合いをはじめた。さらに孝明天皇に開国を賛成してもらい攘夷派も抑え込もうとしたが、天皇は攘夷派で、説得は失敗に終わった。このため攘夷派と尊王派が結びついた尊王攘夷派に勢いが出た。その間、権力と握った井伊直弼は強引に日米修好通商条約を結び、正睦は老中をやめさせられた。
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