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岩倉具視 いわくらともみ1825-1883
〔公家〕
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2000/1/5 up
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下級公家堀河家から岩倉家の養子に入る。朝廷での発言権を得るため、関白鷹司政道に接近し花道を学ぶ。政道のおかげで孝明天皇の侍従となる。具視は公武合体策のため、将軍家茂へ皇女和宮を降嫁させることに成功するが、尊攘派の公家や志士から佐幕派の烙印を押され命を狙われたため、辞官蟄居した。しかし、蟄居の地で龍馬など諸藩の志士と通じ、尊攘派の三条実美とも提携し倒幕へと傾いていく。特に薩摩と深くかかわり、大久保利通とともに朝廷内の親幕派追放を画策する。孝明天皇が崩御し明治天皇が即位すると復職、武力討幕の密勅降下を導く。しかし、将軍徳川慶喜が大政奉還し討幕の口実を失ったため、「王政復古の大号令」を発して慶喜を挑発、戊辰戦争が始まった。維新後は政府の中心人物となる。
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尾崎三良 おざきさぶろう1843-1918
〔公家〕
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2011/1/9 up
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戸田雅楽。三条家家士。慶応3年8月26日、三条実美の指示により長崎に赴く。30日土佐藩佐々木高行を訪ね、紹介された龍馬と意気投合し、ともに京都へ。10月16日、大政奉還後の職制案というものを龍馬に示す。この職制案が龍馬から後藤象二郎の手を経て岩倉具視に渡り、王政復古後の職制の原型となったといわれている。明治23年貴族院議員、同29年男爵。享年77歳。
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孝明天皇 こうめいてんのう1831-1866
〔天皇〕
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2019/9/19 up
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老中・堀田正睦vがアメリカとの通商条約を結ぶ許可を求めてきたが、攘夷派だった孝明天皇は、これに反対した。しかし、大老・井伊直弼は、天皇の許可なしで日米修好通商条約を結んでしまった。攘夷派ではあったが、公武合体には賛成のため、妹・和宮と14代将軍・徳川家茂を結婚させることを受け入れた。しかし天皇は、上位に突き進む長州藩に対して、行動が過激すぎると感じていた。1864年、長州藩が京都での勢力の回復を目指して御所に攻め込んできたとき、天皇は長州藩をうつように命令し、長州藩を破った会津藩主・松平容保を信頼するようになった。しかしその2年後、36歳の若さで病死した。
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三条実美 さんじょうさねとみ1837-1891
〔公家〕
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2000/1/5 up
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右大臣三条実万(さねつむ)の四男。母は土佐藩山内豊策(とよかず)三女紀子。御所石薬師門近くの梨木町に誕生。6歳まで洛北の豪農楠六左衛門のもとで養育され、勤王家富田織部により教育を受けた。嘉永7(1854)年2月、兄公睦の死により実万の嗣子となる。文久2(1862)年8月、岩倉具視ら「四奸臣」弾劾上書を提出した。10月左近衛権中将に叙せられ攘夷督促の勅使となり、姉小路公知を副使に、土佐藩主山内豊範や武市瑞山たちに護られて江戸へ下った。12月議奏、国事掛となり将軍家茂の誓書を携えて帰京。尊攘派勢力の頂点となったが、翌文久3(1863)年8月18日会津薩摩が政変を起こし、参朝禁止処分を受ける。三条ら七卿は都落ちとなり、長州へ下った。西郷隆盛らによって征長軍解兵を条件として、長府功山寺より太宰府延義王院へ移されたのは慶応元(1865)年正月。三条は幕末までここで滞留することを余儀なくされた。龍馬が九州から北上し、延義王院を訪ねたのはその年の5月で、同席した東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は「偉人なり奇説家なり」と龍馬を評している。中岡慎太郎が京都に幽閉中の岩倉具視のもとへ三条の親書「予西竄の後百事不如意、卿(岩倉)、宜しく中興之業を翼賛すべシ」を携えたのは、慶応3(1867)年3月であった。公卿のトップの和解により王政復古の素地が作られた。維新政府では、議定、副総裁、右大臣となる。明治4(1871)年廃藩置県のあと太政大臣に任ぜられ、征韓論をめぐる閣議対立の処置で苦悩する。三条家は摂家に次ぐ清華の一つで笛を家業とし、管紘、香道、和漢の学に優れ、歌集に「西瀕遊草」などがある。
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戸田雅楽 とだうた1843-1918
〔公家〕
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2011/1/9 up
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尾崎三良。三条家家士。慶応3年8月26日、三条実美の指示により長崎に赴く。30日土佐藩佐々木高行を訪ね、紹介された龍馬と意気投合し、ともに京都へ。10月16日、大政奉還後の職制案というものを龍馬に示す。この職制案が龍馬から後藤象二郎の手を経て岩倉具視に渡り、王政復古後の職制の原型となったといわれている。明治23年貴族院議員、同29年男爵。享年77歳。
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