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アーネスト・サトウ あーねすとさとう1843-1929
〔英国〕
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2010/5/22 up
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ロンドンのクラップトンで生まれる。父はスウェーデン人の貿易商人で、母はイギリス人。サトウはロンドンのユニバーシティ・カレッジに在学中、オリファントの『日本、支那訪問記』に感動し、上級進学をやめて、18歳で通訳試験に合格する。サザンプトンより日本を目指し、文久2(1862)年7月の薩英戦争の際、アーガス号に乗って観戦。のちに鹿児島や山口、宇和島を廻り反幕諸藩の動向にかかっていることを鋭く見抜いている。サトウは通訳官から書記官へ進み、英国公使のオールコックやパークスの秘書となり、彼らの片腕として、幕末革命前夜の日本国内でじかに日本人に接し活躍した。サトウと龍馬とは不幸な接点がある。慶応3(1867)年秋、イカルス号の水夫殺害の容疑が海援隊にかかるという迷惑至極な事件が国際的に発展し、9月3日、長崎において審議が始まった。その時の龍馬の表情をサトウは描写している。 「さらに才谷氏も叱りつけてやった。彼はあきらかに我々の言い分を馬鹿にして、我々の出す質問に声をたてて笑ったからである。しかし私に叱りつけられてから、彼は悪魔のような顔つき(most diabolical faces)をして黙りこんでしまった」 サトウは明治2年維新達成を見て一旦帰国したが、翌3年再来し、書記官として活躍した。その後再び帰国し、明治28年日本駐箚公使に昇格して来日、日英同盟交渉に働いた。
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お竜 おりょう1841-1906
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2001/7/7 up
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楢崎竜。
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菊屋峯吉 きくやみねきち1851-1918
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2024/10/12 up
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脱藩した中岡慎太郎が菊屋に下宿し、峯吉がよく使い走りをしていたことから龍馬と顔見知りになった。近江屋事件当夜は、四条木屋町の鳥新へ軍鶏を買いに行っていて何をまのかれ、白川の土佐藩邸に裸馬を飛ばして事件を放置した。明治10年の西南戦争に、会計方軍夫として従軍した。
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清河八郎 きよかわはちろう1830-1863
〔庄内〕
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2019/9/20 up
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清河八郎は、庄内藩の藩士の子に生まれた。18歳の時に江戸に出て、千葉周作の道場「玄武館」で剣術を学び、幕府の学校「昌平坂学問所」で学問を学んだ。その後、江戸で剣術と学問の両方をひとりで教える熟を開いた。その後、全国を回った八郎は各地の志士たちと意見を交わし、尊王攘夷論者となった。八郎は尊王攘夷をおこなうために、強力な先頭集団を作りたいと考えた。ちょうどその頃、14代将軍・徳川家茂が江戸から京都の孝明天皇のところへ行くことになった。八郎が「家茂様を警護する集団を組織するべき」と幕府に提案すると、これが採用され「浪士組」が組織された。ところが警護の仕事が無事終わると、八郎は浪士組の隊士たちに「本当の目的は尊王攘夷を実行することだ」と語った。八郎に反対した近藤勇・土方歳三らは京都に残ったが、八郎は賛成した200人を率いて江戸にもどった。この動きが幕府に伝わり、危険人物と見られた八郎は、幕府の放った剣士・佐々木只三郎に暗殺された。
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グラバー ぐらばー1838-1911
〔英国〕
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2011/1/7 up
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英国の貿易商人。父が上海で商売をしていた関係で、21歳のとき、開港直後の長崎を訪れた。その3年後にはグラバー商会を大浦に設立する。諸藩に鉄砲・弾薬・大砲・軍艦売りさばき、絹・茶・金などを輸出し巨万の富を築いた。グラバーは先見の明があり、坂本龍馬や高杉晋作をかくまったり、伊藤博文ら長州藩の若者5名を英国へ密航させたり、薩摩藩士の英国留学を手伝ったりした。日本茶の輸出で成功した大浦屋のお慶(大浦慶)を龍馬に引き合わせたのもグラバーである。しかし、維新後、グラバー商会は各藩への貸し倒れのため倒産した。その後、岩崎弥太郎の三菱商会の顧問となり、日本で没した。
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斎藤弥九郎 さいとうやくろう1798-1871
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2019/9/20 up
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越中で生まれ、江戸に出て神道無念流の剣術を学び、29歳のとき江戸に練兵館を開いた。長州藩から高く評価され、長州藩士の多くが練兵館で学んだ。
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坂本竜 さかもとりょう1841-1906
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2001/7/7 up
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龍馬の妻。楢崎竜。
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佐久間象山 さくましょうざん1811-1864
〔松代〕
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2019/9/20 up
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佐久間象山は、松代藩の藩士の子に生まれた。天才的な頭脳を持っていた象山は、藩主の命令によって、アヘン戦争でイギリスに負けた清のことを調べ、海外の事情を学んだ。西洋の進んだ文化を取り入れる必要を感じ、34歳のときオランダ語を学び、幅広い西洋の知識を得ると、自分で硝子や電池を製造し、地震予知機まで発明した。さらに、西洋の砲術や兵学を学んだ象山は、江戸で熟を開き、自分の学んだことを吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬などにおしみなく教えた。ペリーが黒船で来航すると、弟子の松陰に外国行きをすすめたが、松陰が密航に失敗したため、象山もこれに関わったとして幕府に捕まり、松代で外出を禁止される生活を送った。1864年、罪を許された象山は、徳川慶喜に京都に呼ばれ、開国論や公武合体論を説いた。しかし尊王攘夷派の暗殺者・川上彦斎に殺された。
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白峰駿馬 しらみねしゅんめ1847-1909
〔長岡〕
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2010/9/14 up
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長岡藩出身。海援隊士。 文久2年に江戸に出て、勝海舟が頭取をつとめる軍艦操練所で学ぶ。元治元年4月には神戸に赴き、勝の海軍塾に入門し、龍馬らと修行に励んだ。慶応元年閏5月には亀山社中結成に参加する。翌2年10月に購入した対極丸に船長として乗り組み、大阪に滞在。翌3年6月に上京して酢屋に下宿した。 慶応4年には隊を離れて新政府に出仕したが、菅野覚兵衛が戊辰戦争から凱旋すると、明治2年にともにアメリカへ渡航する。同7年に帰国後は海軍省に迎えられるが、間もなく官を辞し、日本最初の民間造船所である白峰造船所を設立して活躍した。
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関義臣 せきよしおみ1840-1918
〔福井〕
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2019/9/19 up
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関龍二。福井藩士。海援隊士。 慶応2年12月、長文の意見書を携え、龍馬を長崎に訪ね、意気投合して亀山社中の一員となり、龍馬と後藤象二郎に兄事した。慶応3年7月10日、社中の了解を得てグラバーとローナ商船のゼームスの世話により船に乗り込み英国に向かった。途中、香港沖で難破し救助され、上海経由で長崎へ帰着した。 維新後は徳島、山形県知事などを歴任。明治30年12月貴族院議員。明治40年9月男爵。享年80歳。
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千葉定吉 ちばさだきち?-1896
〔鳥取〕
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2010/9/14 up
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陸奥国原郡荒谷村の出身。剣士。千葉周作の弟。京橋桶町付近に道場を構える一方、嘉永6年に鳥取藩の江戸屋敷に仕え、創術師範をつとめる。 龍馬の入門とほぼ同時に鳥取藩に仕官してしまったため、実際に龍馬に剣術を教えたのは息子の千葉重太郎だと思われる。 維新後の明治4年1月に家督を重太郎に譲って隠居となり、同12年に没した。
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千葉周作 ちばしゅうさく1794-1855
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2019/9/19 up
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陸奥国原郡荒谷村の出身。剣士。北辰一刀流剣術を創始し、文政5年に日本橋品川町に道場玄武館をひらいた。のち、神田お玉ヶ池に移転し、江戸の三大道場の一つに数えられた。弟の千葉定吉の道場で剣を学んだ龍馬とは直接の関係はなかったが、周作の死後の安政4、5年ごろに作られた玄武館修行者の名簿『玄武館出席大概』には龍馬の名が明記されている。
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千葉重太郎 ちばじゅうたろう1824-1885
〔鳥取〕
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2010/9/14 up
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武蔵国江戸杉乃森の出身。剣士。千葉定吉の長男。 父定吉のひらいた京橋の道場で剣術を教授、安政5年1月に定吉が龍馬に授けた「北辰一刀流長刀兵法目録」にも連署している。万延元年ごろになると定吉同様に鳥取藩に仕えるようになり、長州征伐や戊辰戦争に鳥取藩士として従軍した。 明治4年1月、定吉の隠居によって家督を相続。その後は鳥取県、開拓使、京都府などに出仕した。享年62歳。
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楢崎竜 ならさきりょう1841-1906
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2001/7/7 up
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龍馬の妻。京都柳馬場三条下ルで青蓮院宮家の侍医楢崎将作の長女として生まれたという説と、実父は西陣有職織物匠井筒屋喜代門といい、14~15歳の頃に楢崎将作の養女となったという説がある。将作は梁川星巌や頼三樹三郎と親交のあった勤王家で、そのため安政の大獄に連座し、文久3(1863)年に獄死したため一家は離散。元治元(1864)年春頃、生活に窮しているところを龍馬と巡りあい、弟妹たちの身柄を寺田屋お登勢や、勝海舟に託す。龍馬はお竜の母お貞が留守居をしていた方広寺で楢崎一家の身の上話を聞き、気の毒に思って、一・二度合ったことのあるお竜を嫁にくれとお貞に言った。その後の元治元年八月一日、金蔵寺の住職智息院が仲人となって本堂で祝言をあげた。 龍馬は慶応元(1865)年9月9日、乙女とおやべ宛てに長文の手紙を書いている。禁門の変が起き、京都は焼かれ弟妹は四散、売られようとした妹を救出するお竜の雄婦ぶりを描き、「右女ハまことにおもしろき女」「私のあよふき時よくすくい候事どもあり」「名はお竜と申、私しニにており候」と知らせ、「乙大姉の名諸国ニあらハれおり候」と乙女を持ちあげて帯や着物をつかわして下さい、とねだっている。慶応2(1868)年1月、薩長同盟成立後に起きた伏見寺田屋事件では、入浴中のお竜は風呂から飛び出して注進し、薩摩屋敷にも急を知らせるなど、龍馬の危機を救う働きしている。同年3月、小松・西郷らの勧めにより、薩摩へ新婚旅行に出発し、霧島温泉や高千穂の峰に遊び、負傷の治療をかねて日本人初の新婚旅行を味わう。その後、お竜はユニオン号に乗って長崎に向かい、小曽根英四郎宅に入って月琴の稽古などに日を過ごす。ついで、慶応3(1867)年2月、龍馬にともなわれて下関に赴き、伊藤助太夫方に止宿することになった。美人で花を生け香をきき茶の湯を致す教養を持ち、気丈な男勝りの京女は、海援隊士らに「姉さん」と呼ばれたが、土佐藩大監察佐々木高行は日記に、「有名ナル美人ノ事ナレ共、賢婦人ヤ否ヤハ知ラズ、善悪共ニ為シ兼ネル様ニ思ヒタリ」と表している。龍馬がお竜にあてた手紙が一通だけ残っている。いろは丸衝突沈没事件の交渉解決を報じ、「其後は定めてきづかい察入候」とはじまり、長崎へ帰る途中は、「其後ハかならずかならず下関ニ鳥渡なりともかへり申候」と、お竜への気遣いと愛情が示されている。龍馬の没後しばらくは、三吉慎蔵の世話になり、明治元年、龍馬の高知の実家に迎えられた。だた、一年ほどで京都に戻り、龍馬の墓のかたわらに庵室を結んだ。お竜が土佐を去るとき、たくさんあった龍馬からの手紙は、この手紙は人に見せたくないからと、すっかり焼いてしまったようだ。やがて西郷隆盛らを頼って東京に出、明治8年に旧知の大道商人西村松兵衛と再婚し、西村つると名乗り、晩年は横須賀三浦郡豊島村の観念寺裏長屋で夫とくらし、貧窮の中で、明治39(1906)年に没している。享年66歳。墓は神奈川県横須賀市大津3丁目信楽寺(しんぎょうじ)門前に「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。
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橋本左内 はしもとさない1834-1859
〔福井〕
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2019/9/19 up
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橋本左内は越前福井藩の医師のことして生まれ、大坂に出て西洋医学を学んだ。その後、江戸に出て藤田東湖らと交流し、藩に帰ってからは、藩主・松平春嶽から才能を認められ、政治をたすけた。さらに藩の学校「明道館」の責任者になり、軍を強める政策も手伝った。左内は、春嶽と同じく開国論を主張した。幕府の体制をしっかり整えたうえで、西洋の進んだ技術を取りえれていくべきだと考えた。1857年、13代将軍・徳川家定の後継ぎ問題が起こると、左内は春嶽とともに秀才と評判だった徳川慶喜をおした。しかし大老になり、権力を握った井伊直弼が、強引に徳川家茂を将軍にした。慶喜をおした左内は直弼の命令で捕らえられ、死刑になった(安政の大獄)。
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ハリス はりす1804-1878
〔米国〕
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2019/9/18 up
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日米和親条約ば結ばれて2年後の1856年、ハリスは日本に滞在するはじめてのアメリカ外交官として、下田にやってきた。ハリスが来日した目的は、日本と通商条約を結び、貿易をはじめることだった。ハリスは幕府との話し合いを開始すると、江戸城で将軍・徳川家定に会い、貿易を求めるアメリカ大統領の手紙を渡した。続いて老中・堀田正睦と通商条約について話し合いを始めるが、正睦は 孝明天皇の許可を得ることが出来ず、通商条約を結べなかった。次の交渉相手である大老・井伊直弼には、決断を迫り「日米修好通商条約」を結ばせることに成功した。
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藤田東湖 ふじたとうこ1806-1855
〔水戸〕
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2019/9/19 up
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藤田東湖は、水戸藩の学者・藤田幽谷の子として生まれた。幽谷は歴史書「大日本史」を編集した水戸学者だった。水戸学の特徴は、尊王論が基本になっている。東湖は父と同じく水戸学者になった。その後、東湖は藩主・徳川斉昭に仕え、水戸藩の政治改革を進めたり、藩校の「弘道館」の建設を助けたりした。東湖は水戸学の尊王論に攘夷論を主張し、「弘道館記述義」などの書物を著して自分の考えを広めた。この尊王攘夷論は、幕末志士に大きな影響を与えた。黒船が日本に現れた後、幕府から海防参与に任命された斉昭をたすけるため、一緒に江戸に出たが、地震にあって圧死した。
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ペリー ぺりー1794-1858
〔米国〕
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2019/9/18 up
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アメリカの東インド艦隊司令長官。鎖国を続ける日本を開国させるという仕事を任された。ペリーは軍艦4隻を率いて浦賀に到着すると、幕府に開国を求めるアメリカ大統領の手紙を突きつけた。幕府から「返事を待ってほしい」と頼まれ、いったん日本を離れたが、7隻の軍艦を引き連れて再びやってきた。ペリーは幕府に「日米和親条約」を結ばせ、開国させることに成功した。
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松平容保 まつだいらかたもり1835-1893
〔会津〕
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2019/9/19 up
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松平容保は、18歳で会津藩の藩主となった。会津藩は初代藩主が残した掟により、全力で幕府を支えることになっていた。容保は幕府から京都の安全を守る京都守護職になるよう頼まれた。その頃、京都では尊王攘夷派による暗殺事件が多発していた。危険な役目であることを知りつつ、容保は京都守護を引き受け、配下の新撰組を使って厳しく取り締まった。ところが、容保を信頼していた孝明天皇が亡くなり、15代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返した。その後、朝廷を中心とする新政府と旧幕派との間で戦争が起きたため、容保は朝廷の敵になった。新政府軍は会津に戻った容保に激しい攻撃を開始した。多くの犠牲者を出し、力尽きた容保はついに降伏した。
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松平春獄 まつだいらしゅんがく1828-1890
〔福井〕
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2019/9/19 up
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松平慶永のこと。
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松平慶永 まつだいらよしなが1828-1890
〔福井〕
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2019/9/19 up
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文政11(1828)年、御三卿田安家に生まれ、天保9(1838)年11歳で越前福井藩三十二万石の15代藩主斉善の養嗣となる。後、藩主となり、秀才の藩士橋本佐内、中根雪江、由利公正等の人材をよく用いた。また熊本藩儒学者横井小楠を賓師として招いた。藩政改革や殖産興業を行い、幕末非常の正解を牛耳った。ペリー来航時には、開国要求に対し、強行拒絶論を提出するが、安政の頃には橋本佐内ら改革派の意見をふまえて開国貿易論を唱え、洋学振興を図った。安政3(1856)年、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城らと語らい、幕政の大改革と、一橋慶喜の将軍継嗣を主導する。しかし、安政5(1858)年4月、紀伊派の井伊直弼が大老となるや、春嶽は退けられた。井伊亡き後は政状好転して、文久2(1862)年に幕閣の政治総裁職となり、一橋慶喜と共に幕政改革をすすめてゆく。龍馬とはこのころ出会い、春嶽は龍馬を勝に紹介している。元治元(1864)年、京都守護職となったが、まもなく辞職。慶応2(1866)年の長州再征による内戦に反対する。翌年上京して四侯会議に列し、長州処分、兵庫開港問題を議したが、会議の主導権は薩長倒幕派に握られていた。春嶽は大政奉還より王政復古への大変革の中で、倒幕派と幕閣、佐幕派の間に介入して、徳川家の救済と政局の収拾に努めた。慶応4(1868)年戊辰戦争が勃発すると、内戦の拡大阻止に尽力した。維新後、議定、さらに内国事務総督となり、明治2年、民部卿に就任し大蔵卿を兼職した。その後、大学別当兼侍読となり、翌3年に辞職する。
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三浦休太郎 みうらきゅうたろう1829-1910
〔紀州〕
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2010/9/14 up
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紀州藩士。慶応年間に紀州藩家老代理として京都の判定で朝廷と幕府の斡旋役として活動する。 近江屋事件では、いろは丸事件に敗れた報復として龍馬の殺害を命じた黒幕との疑いを持たれ、慶応3年12月7日、宿舎の天満屋を陸奥宗光らに襲撃されるが、新撰組の護衛がついていたためにかすり傷を負ったのみで事なきを得た。 維新後は明治新政府で大蔵省、内務省などに出仕し、のちに元老院議員、貴族院議員などを歴任して、東京都知事を経て宮中顧問官をつとめた。
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三岡八郎 みつおかはちろう1829-1909
〔福井〕
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2019/9/19 up
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由利公正のこと。
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陸奥宗光 むつむねみつ1844-1897
〔和歌山〕
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2000/1/5 up
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陸奥陽之助。龍馬にその能力を高く買われ、「我隊中の者は大小の物を取り上ぐれば、皆路頭に立つ奴なれど、唯陸奥陽之助一人は喰ふに困る男に非ず」と評された。また、その商才も並々ではなく、龍馬から幅広し権限を与えられていた。和歌山藩の勘定奉行職の家に生まれたが、父の失脚により脱藩。文久2(1862)年、龍馬と面識を得、神戸海軍操練所に学んでのち、亀山社中に参加。龍馬が殺された時京都にいて、暗殺の黒幕と目された和歌山藩公用人三浦の宿に斬り込んだ。「坂本は近世史上の一傑物にして、其融変化の才に富める、其見識議論の高き、其他人を誘説感得するの能に富める。同時の人、能く彼の右に出るものあらざりき」と龍馬のことを評した。のちに外務大臣などを歴任した。
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桃井春蔵 ももいしゅんぞう1825-1885
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2019/9/19 up
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駿河で生まれ、14歳のとき江戸の志学館で鏡新明智流の剣術を学び、28歳で志学館を継いだ。武市半平太を高く評価し、塾頭に任命した。
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由利公正 ゆりこうせい1829-1909
〔福井〕
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2019/9/19 up
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三岡八郎のこと。明治3(1870)年、旧姓に復して由利と称した。嘉永4(1851)年、熊本藩士横井小楠の北陸遊歴の際、福井城下で出会ってより、横井に傾倒し生涯の師とした。横井の著書『経世安民』を学んで藩の財政改革に尽力する。横井の指導により、長崎の地で豪商小曾根乾堂の協力を受けて、越前の物産を対外貿易に載せ、藩庫を飛躍的に充実させた領民収奪的な藩専売制を排し、民富論的立場から重商殖産を実現し、由利は幕末の財政家として聞こえた。龍馬は文久3(1862)年5月、勝海舟の使者として、神戸塾設立の資金五千両借用のため越前福井に赴き、役目を果たした。『由利公正伝』にはこの際のことが「或日、親戚の招宴でおそく帰った処、夜半に大声で戸を叩くものがある。出てみると、小楠が坂本と一緒に小船に掉して来た。そこで三人が炉を抱いて飲み始めたが、坂本が愉快極って『君が為め捨つる命は惜しまねど心にかヽる国の行末』といふ歌を謡ったが、其の声調が頗る妙であった」と記されている。龍馬は慶応3(1867)年10月28日福井に着き、11月1日松平春嶽に後藤象二郎の上京要請を伝えている。2日、由利と龍馬の両人は宿のこたつに入り、朝の八時から夜の十時まで、政権返上次第やら、各分財源経綸やらを語り合った。その際、由利は龍馬がくれた写真を懐中して帰った。由利は龍馬の推挙により、京都に出て新政府の徴士参与に起用された。金札(太政官札)の発行などをして危機に瀕した新政府財源を救った。明治元年3月龍馬の「船中八策」を踏襲し、福岡孝弟と「五箇条の御誓文」の原案を製作した。
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横井小楠 よこいようなん1809-1869
〔福井〕
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2019/9/20 up
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隈本藩士の次男で、秀才として知られた横井小楠は、29歳で藩校「時習館」の塾長になり、31歳のとき江戸に出てさらに学んだ。藩に変えると、小楠堂という塾を開いた。評判の高くなった小楠は、越前藩主・松平春嶽に招かれ、藩校「明道館」の教師になった。さらに越前藩の政治改革を頼まれ、指導した。小楠は開国・貿易をおこない、産業を発展させることで国を豊かにすることが重要だと考えていた。1862年、春嶽が政治総裁職に任命されると、小楠も公武合体を実現させるため、春嶽の仕事を手伝った。広い視野を持った小楠の考え方に、坂本龍馬をはじめ多くの志士が影響を受けた。小楠は新政府にも招かれて重要な役職に就いたが、1869年、京都で攘夷派の志士に暗殺された。
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