龍馬の家族 1998/06 up 
八平(はちへい) 父 1797-1855
 諱は直足(なおたり)。土佐郡潮江村(高知市潮江)の白札(郷士とも)山本家より、郷士坂本家の一人娘幸に婿養子としてむかえられた。弓槍は免許皆伝で書や歌もたしなむ。龍馬が嘉永6年3月に江戸修行に赴く際与えた「修行中心得大意」には、忠孝を忘れず修行第一、諸道具に銀銭を費やさない、色情に心を移し国家の大事を忘れない、という三箇条が記されている。

幸(さち) 母 1796-1846
 土佐藩士坂本八蔵直澄の一人娘。山本覚右衛門の次男八平直足を養子に迎え、龍馬ら二男三女をもうける。猫が好きで、龍馬懐妊中も猫を抱いていたので、龍馬の背に怪毛がはえたという伝説がある。また同じく龍馬懐妊中に風雲奔馬が体内にとびこんだ夢を見たので、龍馬と名付けたともいう伝説もある。弘化3(1846)年6月10日、夫よりもはやく49歳で没。

伊與(いよ) 継母 1804-1865
 八平の後妻。北代平助の長女。長ずるにおよび美人の誉れが高くなり、山内容堂公の住む下屋敷に祐筆として仕え、奥女中に薙刀を指南していた。聡明で勝気な反面、慈悲心が強く、義理固く、母思いであった。龍馬を躾のために、食事もおあずけで板の間に端座させたところを人に見られ、いじめていると誤解された。龍馬の伊與あての手紙が一通も残っていないが、これは北代家が維新後に4〜5回引っ越しているため、亡失したものと考えられる。

権平(ごんぺい) 兄 1814-1871
 龍馬より22歳年上の兄。大蔵、佐吉とも名のる。諱は直方(なおかた)。安政3年2月、家督、領地、俸禄を相続して、四代目当主となる。京都藩邸臨時用役、御廟所番、御築山番を務め、安政の頃土佐藩砲術師範徳弘董斎に就き、砲術奥義を授かっている。温厚実直な人柄で、一絃琴をよく演奏する。

千鶴(ちず) 長姉 1817-1861
 安芸郡安田村郷士高松順蔵に嫁して、長男高松太郎(海援隊士、坂本直)、次男南海男(自由民権論者、北海道開拓キリスト教伝導家、坂本直寛)を生む。いずれも後に郷士坂本家跡を継いでいる。

栄(えい) 次姉 ?-1844・47 【坂本栄考察】
 柴田作右衛門に嫁していたが、離婚し坂本家にもどる。龍馬の脱藩に際して、家宝の銘刀を渡した責めを負って自刃したと伝えられていることが多いが、昭和63年に「柴田作右衛門妻 坂本八平女」という碑銘墓が発見され、没年が弘化年間(1844〜1847年)であることが確認されたので、栄は龍馬が12・3歳の時に亡くなったらしい。

乙女(おとめ) 末姉 1831-1879
 龍馬の3歳年上の末姉。体躯巨大で身長五尺八寸、体重三十貫に近く「坂本のお仁王様」と渾名されたという。龍馬が送った乙女宛の手紙が20通近く残されている。剣術は切紙の腕前で、馬、弓術、水練も出来、経書、和歌、絵画も学び、琴、三味線、舞踊、謡曲、浄瑠璃、琵琶歌、一弦琴から義丈夫の音曲が出来た学芸・スポーツ万能の女性で、ただし料理・裁縫が苦手であった。母幸亡き後、龍馬の成長に多大の影響をあたえる。26、7歳のころ本丁筋二丁目の藩医岡上樹庵に嫁し一男一女を生んだが、離婚して坂本家に帰っている。
 晩年は権平の養子直寛に養われた。

春猪(はるい) 姪 1843-?
 権平の娘。龍馬とは叔父と姪の間柄だったが、歳が8つしか違わないため、龍馬に妹のように可愛がられた。龍馬から春猪宛の手紙は2通確認されている。文久のころ、家老山内下総家来の鎌田実清次男の清次郎を婿養子に迎えた。元治元年に長女鶴井を、慶応元年に次女兎美(富)生む。清次郎は慶応3年脱藩して龍馬を頼り、後年帰国して坂本家を出、名を三好賜と改めた。春猪も三好家に入り美登と改める。夫の没後、札幌で牧師をしていた坂本直寛を頼るも、直寛の後妻と合わず高知に帰る。

龍(りょう) 妻 1840-1906
 京都柳馬場三条下ルで青蓮院宮家の侍医楢崎将作の長女として生まれたという説と、実父は西陣有職織物匠井筒屋喜代門といい、14〜15歳の頃に楢崎将作の養女となったという説がある。元治元(1864)年春頃、生活に窮しているところを龍馬と巡りあい、弟妹たちの身柄を寺田屋お登勢や、勝海舟に託す。慶応2(1868)年1月、薩長同盟成立後に起きた伏見寺田屋事件では、入浴中のお竜は風呂から飛び出して注進し、薩摩屋敷にも急を知らせるなど、龍馬の危機を救う働きしている。美人で花を生け香をきき茶の湯を致す教養を持ち、気丈な男勝りの京女は、海援隊士らに「姉さん」と呼ばれたが、土佐藩大監察佐々木高行は日記に、「有名ナル美人ノ事ナレ共、賢婦人ヤ否ヤハ知ラズ、善悪共ニ為シ兼ネル様ニ思ヒタリ」と表している。龍馬の没後しばらくは、三吉慎蔵の世話になり、明治元年、龍馬の高知の実家に迎えられた。だた、一年ほどで京都に戻り、龍馬の墓のかたわらに庵室を結んだ。やがて西郷らを頼って東京に出、明治8年に旧知の大道商人西村松兵衛と再婚し、西村つると名乗り、晩年は横須賀三浦郡豊島村の観念寺裏長屋で夫とくらし、貧窮の中で、明治39(1906)年に没している。享年66歳。

※「脱!竜馬がゆく」では、龍馬とお龍の混乱を避けるため、「竜」と記載してます。



 坂本家の家系図 2001/06/09 up 

坂本家系図



 龍馬の家系図を読む 2000/06/28 up 

 坂本家には商人の家で、龍馬の4代前の直益が郷士株(武士の権利)をお金で買い、長男の直海を郷士坂本家の初代とし、直清に商家才谷屋を継がせました。ですから坂本家には武士と商人の二系統があります。
郷士坂本家としては3代目にあたるのが龍馬の父である坂本八平で、その長男であり、龍馬の兄である坂本権平が4代目です。後に、権平は龍馬の姉である千鶴の息子である直寛を養子にし、郷士坂本家を継がせています。
 龍馬(直柔)は妻のお竜(おりょう)との間に子がありませんでした。龍馬が没した明治維新後の明治4年8月20日、維新の功労者である坂本龍馬の系統が途絶えることに防ごうと、朝旨により姉千鶴のもう一人の息子高松太郎が「坂本直」として龍馬遺跡を相続しました。ですから、坂本竜馬の直系というと坂本直の子孫ということになるのですが、坂本直には実子が無かったのか、数人の養子縁組をして おります。そのなかの直衛が家督を継いだようですが、その直衛に実子がなかったのか、先に書きました郷士坂本家の本家を継いだ、龍馬の姉のもう一人の息子である直寛の長男である直道を養子に貰い受け、龍馬の系統を絶やさないようにしたようですが、残念ながらこの系譜は、直道の子供の直臣さんと寿美子さんで龍馬から数えて5代目で途絶えております。ですから坂本龍馬の直系は存在せず、郷士坂本本家の子孫が全国にいらっしゃいます。

 ちなみに私の住んでいる北海道の有名な画家である坂本直行先生は直寛の孫にあたる方でした。有名なところでは、北海道銘菓六花亭の包装紙は坂本直行さんの絵を使用しております。



 坂本家の家紋 2001/07/01 up 

坂本家 明智家
 坂本家の家紋は、「違枡桔梗紋」(ちがいますききょうもん)といい、「組み合わせ角に桔梗紋」ともいいます。
 あの織田信長を撃った明智光秀の家紋は「桔梗」です。また、明智光秀が近江坂本を本拠としたことから、光秀の娘婿である明智秀満の子が、落ち武者となって土佐に逃れ、長岡郡才谷村に住んだのが、坂本家の起こりだという伝説もあります。しかし、坂本家発祥の地の才谷村に、土佐移住の初代とされる坂本太郎五郎の墓があるのですが、その墓碑の側面には、「太郎五郎は山城国の生まれで、おそらく弘治、永禄のころ戦乱を逃れて才谷村にやってきたのであろう」といった意味のことが刻まれているいますので、明智一族が滅亡するより、だいぶ以前です。結局のところ、坂本家と明智は特に関係ないと思われます。


 明治の坂本一族 1998/06 up 




2枚の写真の合成です。



参考文献 ■ 坂本龍馬事典
■ 坂本龍馬大事典


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