このコーナーでは数多くある龍馬のエピソードの中から、いくつかを紹介します。「脱!竜馬がゆく」は「史実を追求することをベースにもっと龍馬を知ろう」というサイトですが、龍馬の人となりを伝える一つの手段だと割り切って楽しんでください。


 祖先は明智光秀? 2001/04 up 

 坂本家の祖先は、近江坂本を本拠とした明智光秀だったという説がある。
光秀の娘婿である明智秀満の子が、落ち武者となって土佐に逃れ、長岡郡才谷村に住んだのが、坂本家の起こりだという。坂本家の家紋も明智と同じ『桔梗』である。はたして、本当だろうか。
 坂本家発祥の地の才谷村に、土佐移住の初代とされる坂本太郎五郎の墓がある。龍馬の曽祖父にあたる直益が営んだものだが、その墓碑の側面には、「太郎五郎は山城国の生まれで、おそらく弘治、永禄のころ戦乱を逃れて才谷村にやってきたのであろう」といった意味のことが刻まれている。弘治・永禄といえば、明智一族が滅亡するより、だいぶ以前であるので、坂本家と明智は特に関係ないのでしょう。


 雨の日の鏡川水練 2001/04 up 

 ある日、龍馬が高知城下に流れる鏡川に泳ぎに出かけた。水泳は父八平や姉乙女が龍馬に勧めた鍛錬法であった。ところがその日は雨が降っており、鏡川に行く途中、道場の師匠である日根野弁治に出会った。「どこへ行くのだ?」と師匠が聞いたので、「ちょっと鏡川まで水泳に」と答えると「雨が降っているではないか」と言われた。そこで龍馬は「なるほど、さようではありますが、川の中に入れば結局濡れるのですから、どうでもいいと思いまして.....」と言った。常識を平然とくつがえす言動に師匠は感心した。


 肌身から離さなかった訓戒書 2001/04 up 

 龍馬は、江戸へ剣術修行に出発する際、八平から次のような訓戒書を与えられている。
   修行中心得大意
    一、片時も忠孝を忘れず、修行第一の事
    一、諸道具に心移り、銀銭を費やさざる事
    一、色情にうつり、国家の大事をわすれ心得違ひあるまじき事

 龍馬は19歳のときに授けられたこの訓戒書を、大物志士になった後も肌身から離すことがなかった。


 異国の首を討ち取る 2001/04 up 

 嘉永6年6月初旬、ペリー提督の率いる4隻の黒船が浦賀沖に現れた。龍馬が剣術修行のため江戸に到着し、千葉定吉道場に通い始めた矢先のことだった。土佐藩は品川近辺の警備を割り当てられ、龍馬も藩の動員令に従って現地に赴いた。それから三ヶ月後、龍馬が父八平に次のような手紙を書き送った。
異国船所々に来り候由に候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候。其節は異国の首を打取り、帰国仕るべく候
 19歳の龍馬は、まだ時勢に目覚めていない単純な攘夷論者だった。


 中村小町に振られた龍馬 2001/04 up 

 土佐の中村に、お徳という大変な美少女がいて「中村小町」と呼ばれていた。お徳は13歳の時、高知城下に引っ越してきた。すると、お徳の美貌はたちまち評判になり、夜ごと若侍が二、三十人も押しかける騒ぎとなった。その中に、21歳の龍馬もまじっており、すっかりのぼせてお徳に結婚を申し込んだ。ところが、お徳の反応はそっけない。「龍馬さんは土佐に居つくお人でないから」と見事に振られた。ただし、この話は龍馬が有名になってからのつくり話である可能性が強い。(^_^;) <


 血縁の罪に対する龍馬と武市の裁きの違い 2001/04 up 

 龍馬のいとこで武市半平太の血縁でもある山本琢磨が、江戸で剣術修行中、酔って商人にぶつりその商人が落とした舶来時計を質屋に入れたことがばれて、藩から切腹させられそうになった。半平太は武士にあるまじき行為と切腹させようとしたのだが、龍馬は機転をきかせて藩役人の前で琢磨を斬ったと見せかけ逃がした。琢磨は各地を放浪後に北海道箱館へ流れ着きキリスト教の洗礼を受け、大正2年まで生きたが、後年、龍馬を語るたびに涙した。


 次姉お栄の自刃  【真実は】 2001/04 up 

 龍馬が脱藩を企てていた頃、脱藩は下手をすると家族全員に累が及ぶ恐れがあるため、兄の権平は龍馬の刀を取り上げ、使用人までが龍馬の行動を監視した。その頃、次姉であるお栄は夫と離縁し実家に戻っていたが、坂本家に伝わる宝刀「吉行」を龍馬に与えた。二週間後、吉田東洋が暗殺されたため、脱藩者の詮議が厳しくなった。そのため、お栄は家名に傷が付くことを恐れ自刃した。龍馬は乙女だけでなく、栄にも愛されていたことがわかる。遺骸はひそかに埋葬されたのだが、昭和42年遺品が発見され、晴れて墓碑建立となった。


 自分が弱いから負けたのだ 2001/04 up 

 武市瑞山の使者として長州萩に久坂玄瑞を尋ねた文久2年1月のこと、千葉定吉から北辰一刀流免許を受けたはずの龍馬が少年と剣術の試合をしたのだが、三度戦って三度敗れた。「なんで手を抜くのか」と聞かれた龍馬が「自分が弱いから負けたのだ」と言った。


 勝海舟との出会い 2001/04 up 

 文久2年10月のこと、「尊王派を敵視する奸物」と噂の幕臣勝海舟を斬ろうと、攘夷論者である龍馬は千葉重太郎と会見を申し込しこんだ。玄関に入るとそこに現れたのは丸腰で無警戒の勝本人だった。勝は「俺を斬りに来たんだろう。それもいいがまず私の話を聞いてからでも遅くないだろう」と言い、内外の情勢を語りはじめた。龍馬は勝の話しに心服しその場で弟子になった。


 人斬り以蔵の反論 2001/04 up 

 文久3年3月、勝海舟は龍馬に紹介された、岡田以蔵に護衛されて京都を歩いていた。そこに突然三人の壮士がものも言わずに切りかかってきた。岡田以蔵はすばやく一人を斬り、一喝すると残りの壮士は慄えあがって逃げて行った。後日、海舟は「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような振る舞いを改めたがよかろう」と以蔵をたしなめると、「あの時、私がいなかったら、先生の首は飛んでいたんですよ」と反論された。この反論を前にして「これにはおれも一言もなかったよ」と、海舟は後に述懐している。


 龍馬の西郷隆盛評価 2001/04 up 

 長崎海軍操練所時代、師匠の勝海舟が薩摩の西郷隆盛のことをよく褒めた。そんな人物なら会ってみたいと思い、勝に紹介状を書いてもらい西郷と面会した。後日、勝が龍馬に西郷の印象をたずねると、「なるほど、西郷というやつは、解らぬやつです。小さくたたけば小さく響き、大きくたたけば大きく響く。もし馬鹿なら大馬鹿で、利口なら大きく利口でありましょう」と言った。要するに、西郷の器量は底が知れないということだが、これに対して西郷の龍馬評価は、「天下に有志あり、余多く之と交はる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」で、自分以上に龍馬の人間器量は大きいというのである。


 お竜に夜這いをかけた人斬り半次郎 2001/04 up 

 ある日、中村半次郎(桐野利秋)が大山らと寺田屋に宿泊した。薩摩隼人は気が荒いので、女中たちはしり込みして酌に出ようとせず、それが気に入らないといって、半次郎らはますます荒れた。そこへお竜が顔色も変えずに上がっていった。半次郎の傍らに座り、手酌で5・6杯飲み干した後、「酒を飲んで暴れるなんて、あなたの器量をさげるばかりですよ。私が相手をしますから、静かにじっくりとお飲みなさい」と言った。
 その夜、お竜が寝ていると部屋に半次郎が入ってきて、「おい、女、今夜はわしの伽をせい」と言った。半次郎がつかみかかると、お竜の懐から短刀がこぼれた。「女のくせに短刀を持っているとは怪しい」とお竜に迫り始めたところ、大山が半次郎を呼び、「これは、土佐の坂本の差し料だ。坂本はかくし妻に短刀を渡してあるという」というではないか。半次郎は愕然として、お竜に詫び、翌日には料理屋に招いてご馳走攻めにし、昨日の一件は龍馬に内緒にしてほしいと頼んだ。


 円山花月の刀痕 2001/04 up 

 長崎丸山の料亭「花月」には今でも床柱に刀痕がある。当時、龍馬はお元という芸妓を伴い、よく花月に来た。この刀痕は龍馬が酔っぱらってつけたという説と、高杉晋作がつけたものだという説がある。しかし、花月は明治元年に改装されたらしい.....(^_^;)


 刀 → ピストル → 万国公法 2001/04 up 

 土佐勤王党のメンバーだった桧垣清治は優れた剣の使い手であったが、当時、若者の間で流行していた長刀を腰に誇らしげに歩いていた。それを見かけた龍馬は「大きいだけでは実戦の役に立たない、むしろ短い刀こそ敏捷に対応できる」と言って自分のさしている短めの刀をしめした。桧垣はなるほどと思い、さっそく長刀をさすのをやめ、短い刀にとりかえた。しばらくして路上で龍馬とであった桧垣は、腰にさした短い刀を見せて意のあるところを示したが、龍馬はニヤニヤして無造作に懐からピストルをとり出し、空へ向かっていきなり一発ぶっ放した。さらに数ヶ月たったある日龍馬に会うと、今度は一冊の本を差し出し、「今この本を読んでいる。これからの日本は剣や銃だけではだめだ」と言って笑ったという。この本は「万国公法」、つまり国際法の書物だった。龍馬の変わり身の早さを象徴したエピソードだ。


 世界の海援隊 2001/04 up 

 維新間際、龍馬が新政府の構想を西郷隆盛に見せたところ、その名簿に龍馬自身の名前が載っていなかった。西郷が「土佐から出るはずの貴殿の名がないのはどうしてか」と尋ねたところ、「自分は役人が嫌いだ」と答えた。「役人にならないでどんな仕事をするつもりか」との西郷問いに「そうだな、世界の海援隊でもやりますか」と言った。大西郷さえも上回る、人間としてのスケールが見える。


 日露戦争前に昭憲皇太后の夢枕に立つ 2001/04 up 

 明治37年日露戦争開戦前に、「時事新法」に皇后陛下の「瑞夢」が報道された。龍馬が皇后の夢に現れて「微臣、魂魄(こんぱく)を皇国海軍にやどし、必ず勝利へと導き奉る」と奏上したという。皇后が本当にそんな夢を見たかどうかは解らないが、維新後に薩摩と長州ばかりが政界ではばをきかせていたので、土佐の勢力挽回のために宮内大臣の田中光顕(土佐勤王党→陸援隊)らが工作したと考えられている。



参考文献 ■ 別冊歴史読本 坂本龍馬の謎
■ 坂本龍馬おもしろ事典

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