◆ た行 ◆  2010/03/25 up 

■大政奉還(たいせいほうかん)
将軍徳川慶喜が政権の奉還を上表し、これが聴許されたこと。慶応3年10月13日、幕府は10万石以上の在京各藩重臣を二条城に召集し大政奉還の可否を問い、14日に慶喜は決断して使者を参内させ、上表文を提出した。これを容れて翌15日には慶喜に参内を命じ、大政奉還が成立した。

■長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)
禁門の変で、武力による京都進発から敗走した長州藩を、幕府側が征討するため出戦した事件。元治元年7月19日の御所周辺での戦闘で敗走した長州勢に対し、幕府や諸藩は攻勢を強め、早くも23日朝廷から征長の勅許を下賜、出兵の準備に入って行く。しかし諸藩の事情から、その準備にてこずり、同年11月にようやく出陣が開始され、十数万の軍勢が長州藩境に布陣、18日が長州総攻撃と定められた。

■寺田屋(てらだや) (←ヤフーのマップを見る)
京都市伏見区南浜町236番地。
伏見京橋は大阪八軒家と結ぶ京阪の交通要所であり、十数件の船宿でにぎわっていた。龍馬が寺田屋に出入りするようになったのは慶応元年頃からと思われるが、女将のお登勢は龍馬の頼むままお竜を養女分とし、その家族の面倒をみるなど、定宿という以上の存在であった。
当時の寺田屋は鳥羽伏見の戦で焼失しので、現在の建物はその後再建されたものです。


■天誅組(てんちゅうぐみ)
文久3年8月、大和五条で挙兵した倒幕派武装集団。主将には元侍従の中山忠光。隊士は土佐、因州、久留米、肥後などの過激派浪士からなり、途中で十津川郷士(約1,000人)が参加した。土佐からは吉村虎太郎、池内蔵太、那須信吾、安岡嘉助、伴林六郎、楠目清馬、森下幾馬、土居左之助などが参加している。


■天満屋事件(てんまやじけん)(←ヤフーのマップを見る)
龍馬と中岡慎太郎の暗殺は新選組の仕業と信じられていたが、その新選組をそそのかして坂本を襲わせたのは、いろは丸と明光丸の衝突事件で多額の賠償金を支払わされた紀州藩の三浦休太郎が裏にいたとの噂を聞きこんだ陸奥陽之助が海援隊士を集め敵討ちを計画。慶応3年12月7日夜、十津川郷士中井庄五郎、前岡力雄らが加わり16名が三浦が宿舎としていた天満屋へ斬りこんだ。
このとき、天満屋には会津藩を通じて紀州藩から三浦の護衛を依頼された新選組斎藤一隊が駐留。大石鍬次郎ら7名の新選組は三浦を天満屋から脱出させ、海援隊士と戦った。この戦いで十津川郷士中井が闘死。


■土佐勤王党(とさきんのうとう)
武市半平太によって結成された組織。公武合体の土佐藩藩論を一藩勤王に変換させることを主眼においた。
文久元年8月、武市は江戸で大石弥太郎ら7名とともに、安政の大獄で謹慎状態にある山内容堂を尊王主義者と確信して、その雪冤のため土佐勤王党を結成する。武市は9月25日、土佐に帰国し、本国内にてただちに勤王党の血盟者を募っている。これに反応したのは特に下士層からの血盟者で、総数192人の血盟者中、そのほとんどを下士層が集中している。龍馬は血盟書の第9番目に署名、土佐本国内での初の同盟者でもあった。
その後、武市は土佐藩内で公武合体策を推進する吉田東洋が、自らの主張する一藩勤王への変更不能と知り、これを暗殺。容堂の激怒を買うも、弟で勤王党に好意を示す山内民部の配慮により、一時的に事は収まり、藩内は安定した。その後、武市は他藩応接役などとして京都で活躍、さらに上士格ともなった。
文久3年6月、極秘で藩政改革を行ない藩論を勤王に変更させようとしていた勤王との間崎哲馬らが、容堂の逆鱗に触れ切腹刑となり、これが勤王党弾圧の端緒ともなった。それより先の4月に京都から土佐に帰国していた武市は、帰国に際し龍馬に同行を勧めたと言う。だた龍馬はこれを謝絶した。武市は帰国後、投獄、さらに多数の党員が投獄され、土佐勤王党は事実上壊滅した。
武市半平太・大石弥太郎・島村衛吉・間崎哲馬・門田為之助・柳井健次・河野万寿弥・小笠原保馬・坂本龍馬・岡本恒之助・川原塚茂太郎・上田楠次・弘瀬健太・多田哲馬・曽和伝左衛門・島本審次郎・中岡光次・島村寿之助・吉井茂市・望月清平・土方楠左衛門・小畑孫三郎・安岡実之丞・島村寿太郎・吉本善吉・高橋牛之助・鎌田菊馬・吉田省馬・山本三治・石川喜久馬・依岡権吉・宮田頼吉・森脇唯次郎・千屋寅之助・浜田清蔵・伸彦太郎・谷疇太郎・岩崎馬之助・檜垣清治・村上保次・藤本駿馬・千頭嘉源太・大利鼎吉・宮崎勝蔵・北代忠吉・三瀬八次・村田忠三郎・田所助次郎・小畑五郎馬・池田卯三郎・島地磯吉・吉松恒吉・野々村庄吉・沖野平吉・尾崎幸之進・田所荘之助・志和寅之助・岡田啓吉・小松熊市・伊藤四十吉・土居左之助・中島与市・安岡覚馬・山本四郎・山本兼馬・田口文臭・岡野佐五郎・伊藤甲之助・田岡祐吾・平石六五郎・西山直次郎・小川平馬・楠本文吉・岡崎山三郎・上田官吉・中城益四郎・石川潤次郎・佐井松次郎・板垣寛之助・島村源六・中沢安馬・南部展衛・千頭小太郎・宮川助五郎・粟井兎之助・白石馬之助・秋沢清吉・安岡権馬・矢野川 龍右衛門・尾崎源八・浜田良作・田内衛吉・深瀬鉄馬・吉永良吉・三宅謙四郎・田中作吾・村田右馬太郎・村田角吾・公文藤三・武政左喜馬・中村恵三郎・中平菊馬・長尾省吾・観音寺・山崎喜蔵・千屋菊次郎・今橋権助・千屋金策・谷脇清馬・高橋俊助・片岡左太郎・海路十寸吉・戸梶直四郎・竹村猪之助・山崎広馬・片岡盛蔵・北添佶馬・江口参太・中村左右馬・片岡団四郎・中平喜之助・中平大治・市川長三郎・今橋武之助・西田可蔵・近藤亀弥・宮田節斎・和食牛馬・安岡斧太郎・上田蜂馬・川久保健次・井原応輔・浜田辰也・岩神主一郎・鳥羽謙三郎・下方弥三郎・中山刺撃・吉沢迂郎・橋本鉄猪・土方左平・那須盛馬・堀見久庵・清岡治之助・阿部多司馬・小畑孫次郎・久松喜代馬・松山深蔵・田辺豪次郎・高松太郎・柏原禎吉・筒井米吉・五十嵐幾之助・佐井寅次郎・川田貞七・堀内賢之助・山本喜三之助・平井収二郎・森助太郎・森田金三郎・中平保太郎・三原兎弥太・岡本八之助・上田宗児・坂本栄十郎・浪越肇・服部東蔵・川田乙四郎・吉本平之助・楠瀬六衛・都賀田文八・安岡覚之助・上岡胆治・弘光明之助・田所駒吉・岡甫助・島村左伝次・西山平馬・池知退蔵・安東真之助・島村外内・岡本猪之助・安岡金馬・足達行蔵・細木核太郎・楠目民五郎・一瀬源兵衛・岡本滝馬・森下幾馬・宮地宜蔵・山田三蔵・庄村良達・西村広蔵
以上192名。


■土佐商会(とさしょうかい)(←ヤフーのマップを見る)

長崎と大阪におかれ、主として藩内の特産物を売りさばく機関であったが、長崎の出張所では岩崎弥太郎が主任となり、船舶や武器の購入に力を入れた。慶応3年4月、海援隊は土佐藩の支配となったが、自給自足を掲げていた隊も活動費が不足した場合には藩から援助されることになっており、土佐商会が、その窓口を務めた。龍馬の要望に応じて、月額五両の給料を支給している。維新後の明治3年に商会は解散となるが、事業は岩崎が継続して行ない、のちに岩崎の個人事業である三菱商会となった。長崎土佐商会のあった場所は、現在の長崎市西浜町で、記念碑が立てられている。

■土佐白川藩邸跡(とさしらかわはんていあと)(←ヤフーのマップを見る)

京都市左京区北白川追分町。慶応2年正月の薩長連合の密約の後をうけて、同3年5月には薩土の討幕挙兵の約も成り、京にいた中岡慎太郎は白川の土佐藩邸を借り、自ら隊長となって諸藩の有志を集め陸援隊を組織した。

■土佐藩上屋敷跡(とさはんかみやしきあと)(←ヤフーのマップを見る)

東京都千代田区丸の内3丁目5〜8番地。龍馬は嘉永6年の最初の江戸行きの時、当初、上屋敷の長屋で起居していたといわれている。

■土佐藩下屋敷跡(とさはんしもやしきあと)(←ヤフーのマップを見る)

東京都品川区東大井2丁目、3丁目。鮫洲別邸とも呼ばれていた。嘉永6年6月、黒船が来航し、6日、幕府は江戸湾岸に藩邸を持つ諸藩に動員を命じる。江戸に来ていた龍馬も、この時、下屋敷に召集されたと思われる。

■土佐藩邸跡(とさはんていあと) (←ヤフーのマップを見る)
京都市中京区木屋町通り蛸薬師下ル西側備前町元・立誠小学校。江戸初期より明治4年まで土佐藩山内氏24万石の京都藩邸であり、南側には高瀬川舟入が造られ、蛸薬師北側の土佐稲荷も、かつては藩邸内に鎮座していた。
文久3年1月、勝海舟は伊豆下田で山内容堂に、龍馬の脱藩罪の赦免を乞い、容堂はこれを快諾した。京都藩邸より、徒目付島村寿之助、望月清平が下坂して龍馬を藩邸に拉致し7日間謹慎せしめた。2月25日、龍馬は晴れて自由の身になった。


■鞆の浦(とものうら) (←ヤフーのマップを見る)
広島県福山市鞆町。慶応3年4月23日、龍馬ら34名の乗組員と武器、弾薬を積んで長崎から大阪へ向かう途中のいろは丸(450トン)は、六島(現・広島県笠岡市)の南西で紀州藩船明光丸(887トン)と衝突。いろは丸は鞆港へ約2里曳航する途中、宇治島の前洋にて沈没した。
龍馬らは鞆の浦に上陸し、紀州藩と折衝するため、数日滞在を余儀なくされた。