◆さ行 ◆  2010/03/24 up 

■才谷屋(さいたにや) (←ヤフーのマップを見る)
坂本龍馬が生まれた坂本家の本家で、城下屈指の豪商だった。寛文6年、八兵衛の代に高知城下町に移住して上町方面の本丁筋三丁目の借家で質屋をはじめた。つづいて延宝5年に酒屋、元禄7年に本丁筋二丁目の借家で処品販売にも手をひろげ、才谷屋の基礎をつくった。元禄14年3月、二代目八郎兵衛の代には本丁筋三丁目に大きな屋敷を買い求め、その後、商売のほうも境町に呉服店を開業するなど、わずか数十年で城下屈指の豪商に成長した。直益の長男直海は明和7年3月、才谷屋を出て本丁筋一丁目の南側に分家、翌明和8年5月、新規郷士に召し出された。郷士坂本家のはじまりで、龍馬は直海の曽孫にあたる。
一方、才谷屋は江戸末期になると、家運が傾き、嘉永2年には酒造業を他譲、「仕送屋」を専業とした。だた、武士階級に寄生したこの商売は、明治維新で当然のことながら大打撃を受けて没落、明治15年、源三郎の代に破産し、土地家屋は人手に渡った。


■薩長同盟(さっちょうどうめい)
慶応2年1月22日、薩摩藩と長州藩の間に締結された軍事同盟。同盟に際し龍馬は両藩への交渉から締結に至るまで長期尽力した。
龍馬は元治元年秋以後、薩摩藩のもとに庇護されていた。龍馬は西郷隆盛が征長軍参謀の任にありながら長州に寛大な降伏条件を出すなど、長州への温情姿勢を見せたことを重視、中岡慎太郎らが積極的になっていた薩長和解への工作活動に参加して行く。
龍馬は亀山社中の機動性を駆使し、長州に薩摩名義で武器購入のバックアップ、薩摩には長州よりの兵糧米の搬送という両藩それぞれが実利をあげる計画を実施、これによって両藩は、折からの長州再征の動きとあいまって和解と同盟へと進んでいく。
同盟は京都二本松薩摩藩邸にて龍馬立会いの上、両藩重鎮によって確認された。全六箇条からなり、長州再征がいかなる展開を見せたときも、薩摩は朝廷に対し長州の権威回復のため尽力することと、戦闘時の後方支援とを約し、復権ごは両藩ともに皇威回復のために誠心尽力することを誓約した。
同盟書そのものは残されておらず、長州側の責任者の桂小五郎が龍馬に宛てた書状に全文が記され、裏面に龍馬の証書が記されて伝えられた。


■薩土討幕密約(さつどとうばくみつやく)
薩土盟約に先立つ慶応3年5月22日夜、京都御花畑の小松帯刀邸で結ばれたとする薩摩と土佐の武力討幕についての密約。土佐の中岡慎太郎・乾退助、薩摩からは西郷隆盛・吉井幸輔も同席し、席上では乾は土佐の藩論が佐幕に傾くのを嘆き、しかし一ヶ月の猶予があれば土佐の同志を糾合して上洛すると明言、できなければ切腹すると宣言した。中岡は自らが人質となって、違約したときには自分も腹を切ると保証した。西郷らは快哉して、ここに討幕の盟がなったという。

■薩土盟約(さつどめいやく)
慶応3年6月22日、京都三本木の料亭吉田屋で結ばれた薩摩藩と土佐藩の王政復古についての条約。薩摩からは小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通、土佐からは後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺栄三郎が出席し、龍馬と中岡慎太郎が陪席した。
    約定之大綱
一、国体を匡正し万世万国に亙りて不恥、是れ第一議。
一、王政復古は論なし。宜しく宇内の形勢を察し参酌協生すべし。
一、国にニ帝なく家にニ主なし。政刑一君に帰すべし。
一、将軍職に居て政柄を執る、是天地間有るべからざるの理也。
   宜しく侯列に帰し翼戴を主とすべし。
右方今之急務にして天地間常有の大条理也。心力を協一にして斃て後已ん。
何ぞ成敗利純を顧るの暇あらんや。
   皇慶応丁卯六月
以上を「主旨」として、以下七ヵ条にわたって王政復古の内容を定めている。


■佐幕派(さばくは)
幕末時代、幕府の政策に賛成し助けた人たち。

■塩浸温泉(しおひたしおんせん) (←ヤフーのマップを見る)
鹿児島県姶良郡牧園町。創傷に卓効があるといわれている塩浸温泉での湯治が、新婚旅行をかねて鹿児島を訪れた龍馬夫婦の目的であった。龍馬とお竜が訪れた頃の塩浸温泉は、渓谷の清流に洗われる岩に石組みをして、わずか数人が入れるていどの湯つぼに、雨露をしのぐ簡単な屋根がおおっている湯治場だったようである。二人は近くの民家に腰を落ちつけて、前後二〇日近く滞在し、傷の養成ににはげんだ。

■七卿落ち(しちきょうおち)
文久3年8月19日早朝、前日の政変により御所参内を禁じられた七人の公家が、京都を去り長州に向かった事件。
公武合体を奉ずる勢力を増大させていた過激な尊攘派らは八月十八日の政変でいっせいに京都を追われることとなった。三条実美筆頭とする尊攘派公家は、この政変で御所への参内を禁じられ、また長州藩は御所境町門の警備を解任された。
翌朝早朝、三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉の七人の公家は、中岡慎太郎ら護衛の尊攘派志士らと雨の中、京都を出、長州へと落ち延びていった。
七人の公家のうち、沢は10月に平野国臣らと但馬の挙兵に参画、錦小路は翌年4月に病没、残る五卿は元治2年1月、大宰府に身柄を移し、慶応3年に復権し、卿とに帰還するまで滞留した。


■自然堂(じねんどう) (←ヤフーのマップを見る)
龍馬は慶応2年12月ごろから慶応3年3月ごろまで下関の伊藤助太夫方を寓居としており、その自分が住んだ一室を「自然堂(じねんどう)」と名づけた。お竜もここに住んでいたが、慶応3年11月15日の悲報はここで聞くことになる。龍馬はこの「自然堂」を号としても使っていて、慶応3年10月13日付けの陸奥宗光あての書簡に署名して使用されているほか、長岡謙吉も「自然堂直柔先生」と書き残している。

■士農工商(しのうこうしょう)
武士・農夫・工夫・商人の意味。封建社会を形づくった、全ての階級の人。

■修行中心得大意(しゅぎょうちゅうこころえたいい)
嘉永6年3月、江戸へ修行に向かう19歳の龍馬に父の八平が与えた訓戒書で、次のようにある。
  修行中心得大意
一片時も不忘忠孝修行第一之事
一諸道具ニ心移リ銀銭不費事
一色情ニうつり国家之大事をわれ心得違有間じき事
 右三ヶ条胸中ニ染メ修行をつミ目出度帰国専一ニ候以上
  丑ノ三月吉日       老父
    龍馬殿
三項目の「われ」は「わする」の誤記。


■庄屋(しょうや)
江戸時代の一村の長。領主の命により村民の中から選ばれ、代官・郡代の下で納税の監督、農耕指導・人事支配をつかさどった。

■新官制議定書(しんかんせいぎていしょ)
龍馬が慶応3年10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)の協力を得て作成した新政府の職制案。関白、内大臣、議奏、参議などからなり、公家、大名、諸藩士の名が適所に配置されたみごとな草案だった。新政府樹立に功績のあった人々が列挙されたその名簿の中に肝心の龍馬の名がなかったため、西郷隆盛が驚いたという逸話が伝わる。
確かに坂崎紫瀾『坂本龍馬海援隊始末』所収の「尾崎三良手扣」の職制案には龍馬の名は記されていない。しかし、「尾崎三良手扣」は別に『坂本龍馬関係文章第一』にも収録されており、そちらのほうには龍馬の名が入っている。これは尾崎の残した別の記録である『尾崎三良自叙略伝』や『史談会速記録(第七九輯)』についても同様なので、龍馬の名のあるほうが正しい職制案ということになる。
関 白 三条実美
内大臣 徳川慶喜
議 奏 有栖川宮熾仁・仁和宮嘉彰・山階宮晃・島津忠義・毛利広封・松平春嶽・山内容堂・鍋島閑叟・徳川慶勝・伊達宗城・正親町三条実愛・中山忠能・中御門経之
参 議 岩倉具視・東久世通禧・大原重徳・長岡良之助・西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通・木戸孝允・広沢真臣・横井小楠・三岡八郎・後藤象二郎・福岡孝弟・坂本龍馬

■新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)
大政奉還後の新政府政権による政体案で、「新官制議定書」に続いて製作された。内容は次のとおり。
第一義  天下有名ノ人材ヲ招致シ、顧問ニ供フ。
第ニ義  有材ノ諸侯ヲ撰用シ、朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ、現今有名無実ノ官ヲ除ク。
第三義  外国ノ交際ヲ議定ス。
第四義  律令ヲ撰シ、新ニ無窮ノ大典ヲ定ム。律令既ニ定レバ、諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ス。
第五義  上下議政所。
第六義  海陸軍局。
第七義  親兵。
第八義  皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス。
右預メ二三ノ明眼士ト議定シ、諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々。○○○自ラ盟主ト為リ、此ヲ以テ朝廷ニ奉リ、始テ天下万民ニ公布云々。強抗非礼公議ニ違フ者ハ、断然征討ス。権門貴族モ賃借スル事ナシ。
 慶応丁卯十一月             坂本直柔
尾崎三良による「新官制議定書」には徳川慶喜が内大臣に擬されており、伏字とされていた「○○○」には慶喜が想定されたものと思われる。


■新撰組(しんせんぐみ)
文久3年3月に組織された佐幕派の特別警察隊。京都守護職松平容保の支配下にあった。結成当初は芹沢鴨が実権を握っていたが、内部抗争により暗殺され、以後は局長近藤勇、副長土方歳三による執行体制がとられた。元治元年6月5日、京都三条の旅宿池田屋を襲撃して倒幕派を弾圧。このとき、龍馬の同志だった望月亀弥太と北添佶磨が斬殺されている。
慶応3年11月15日、龍馬と中岡慎太郎が近江屋で横死すると、下手人は新撰組だという噂が囁かれた。陸奥ら海援隊の残党は12月7日、暗殺の黒幕とみなされた紀州藩の三浦休太郎を天満屋に襲い、護衛の新撰組との決闘を繰り広げている。翌4年4月に新政府軍に捕縛された近藤勇が斬首、梟首という苛酷な刑に処せられたのも、龍馬殺害の容疑がかけられていたためかもしれない。
新撰組は、その後、土方歳三に率いられて榎本武揚らの旧幕府軍に合流し、箱館まで転戦するが、翌明治2年5月11日に土方は戦死を遂げ、同月18日に旧幕府軍は全面降伏した。


■酢屋(すや) (←ヤフーのマップを見る)
京都市中央区河原町三条下ル車道東入ル北側。慶応3年6月15日、龍馬は長岡謙吉と共に海路大阪へ上陸したのち入京して酢屋こと材木商、中川嘉兵衛方へ投宿した。酢屋は高瀬川の舟入りに面し享保年より材木業の傍ら運送業も営んでおり、龍馬材宿時は六代目であった。
龍馬は、ここを海援隊の屯所としたが、11月5日に帰京してからは、身辺が危険になって来たため近江屋へ住居を移している。


■切腹(せっぷく)
平安時代末期以来、武士が自殺する場合の風習。江戸時代の武士の死罪のひとつ。

■船中八策(せんちゅうはっさく)
いろは丸事件が解決し、長崎から兵庫に向かう船中で龍馬が後藤象二郎に示した大政奉還とその後の政策案。横井小楠の「国是七条」の思想が色濃く反映されている。内容は次のとおり。
天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
有財ノ公卿侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ選定スベキ事。
海軍宜ク拡張スベキ事。
御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムゲキ事。
金銀物資宜シク外国ト平均ノ法ヲ設ケベキ事。
以上八策ハ
尾崎三良による「新官制議定書」には徳川慶喜が内大臣に擬されており、伏字とされていた「○○○」には慶喜が想定されたものと思われる。


■尊王攘夷(そんのうじょうい)
もともとは「尊王」と「攘夷」の二つに分かれる。尊王とは皇室を尊ぶことで、攘夷とは外敵を追っ払って入国を拒むこと。幕末に、尊王論と攘夷論が合流して、討幕の主潮となった。京都公家および長州・水戸藩などはその代表的な支持者。