◆ か行 ◆  2010/03/24 up 

■海援隊(かいえんたい)
龍馬が土佐の支配のもとに慶応3年4月に組織した浪士結社。脱藩罪を許された龍馬が隊長となり、本部は長崎の小曽根家の別邸に置かれた。隊士は亀山社中の顔ぶれのほかに長岡健吉、野村辰太郎、吉井源馬、佐々木栄らが入隊して、総勢20人ほどになり、これに水夫などを加えた50人ほどで一隊が構成された。

■鏡川(かがみがわ) (←ヤフーのマップを見る)
高知市街を東西に流れ、浦戸湾に注ぐ河川。龍馬の生家から南へ三丁ばかり行くと鏡川に出る。ある日、龍馬が高知城下に流れる鏡川に泳ぎに出かけた。水泳は父八平や姉乙女が龍馬に勧めた鍛錬法であった。ところがその日は雨が降っており、鏡川に行く途中、道場の師匠である日根野弁治に出会った。「どこへ行くのだ?」と師匠が聞いたので、「ちょっと鏡川まで水泳に」と答えると「雨が降っているではないか」と言われた。そこで龍馬は「なるほど、さようではありますが、川の中に入れば結局濡れるのですから、どうでもいいと思いまして.....」と言った。常識を平然とくつがえす言動に師匠は感心した。

■徒士(かち)
歩いて主君の先駆をする武士。

■亀山社中(かめやましゃちゅう) (←ヤフーのマップを見る)
龍馬が慶応元年閏5月ごろに組織した浪士結社。薩摩藩の比護のもとに交易の仲介や物資の運搬などをおこなって利益を得、同時に航海術を修練して軍事面に役立てるという画期的な結社だった。長崎の亀山に本拠を置いていたので、この名があるが、正式には、ただの「社中」といった。結成からニ年で土佐藩の支配下に置かれ、海援隊に改編されることになったが、二年間在籍したメンバーは18名。
【土佐】坂本龍馬・近藤長次郎・千屋寅之助・高松太郎・沢村惣之丞
     新宮馬之助・池内蔵太・石田栄吉・山本洪堂・中島信行
【越前】小谷耕蔵・渡辺剛八・腰越次郎
【越後】白峰駿馬・橋本久太夫
【紀伊】陸奥源二郎
【讃岐】佐柳高治
【鳥取】黒木小太郎

■家紋(かもん)
古くから家々で定めた、家のしるし。龍馬の坂本家の家紋は、「違枡桔梗紋」(ちがいますききょうもん)といい、「組み合わせ角に桔梗紋」ともいいます。あの織田信長を撃った明智光秀の家紋は「桔梗」です。また、明智光秀が近江坂本を本拠としたことから、光秀の娘婿である明智秀満の子が、落ち武者となって土佐に逃れ、長岡郡才谷村に住んだのが、坂本家の起こりだという伝説もあります。しかし、坂本家発祥の地の才谷村に、土佐移住の初代とされる坂本太郎五郎の墓があるのですが、その墓碑の側面には、「太郎五郎は山城国の生まれで、おそらく弘治、永禄のころ戦乱を逃れて才谷村にやってきたのであろう」といった意味のことが刻まれているいますので、明智一族が滅亡するより、だいぶ以前です。結局のところ、坂本家と明智は特に関係ないと思われます

■家老(かろう)
大名の家臣の長。

■汗血千里駒(かんけつせんりのこま)
明治16年に坂崎紫瀾が土陽新聞に連載した龍馬の伝記小説。龍馬を主人公に据えた史上初の小説で、読者から大反響を呼んだ。原題は『天下無双人傑海南第一伝奇・汗血千里駒』。

■桔梗(ききょう)
龍馬の坂本家の家紋は、「違枡桔梗紋」(ちがいますききょうもん)といい、「組み合わせ角に桔梗紋」ともいいます。あの織田信長を撃った明智光秀の家紋は「桔梗」です。また、明智光秀が近江坂本を本拠としたことから、光秀の娘婿である明智秀満の子が、落ち武者となって土佐に逃れ、長岡郡才谷村に住んだのが、坂本家の起こりだという伝説もあります。しかし、坂本家発祥の地の才谷村に、土佐移住の初代とされる坂本太郎五郎の墓があるのですが、その墓碑の側面には、「太郎五郎は山城国の生まれで、おそらく弘治、永禄のころ戦乱を逃れて才谷村にやってきたのであろう」といった意味のことが刻まれているいますので、明智一族が滅亡するより、だいぶ以前です。結局のところ、坂本家と明智は特に関係ないと思われます

■近畿評論(きんきひょうろん)
京都市にあった近畿評論社発行の雑誌で、明治33年5月号に今井信郎の談話記事が掲載された。この記事の筆をとったのは、新選組にかかわりのあった結城無二三の長男結城礼一郎だった。内容は龍馬殺害を見廻組 とするもので、今井が自分で斬ったと明言しているが、礼一郎は「事実も多少修飾し、龍馬を斬った瞬間の光景なぞ大いに芝居がかりで大向こうをやんやと言わせるつもりで書いた」のだとしているため、どこまでが今井の言葉であったかは疑問が残る。これを片岡健吉から読まされた谷干城が、明治39年11月に京都東山招魂社で開かれた公演会で反論したことは有名。

■禁門の政変(きんもんのせいへん)
文久3年8月18日、公武合体派勢力によって、京都の御所内から尊王攘夷派の公家らと長州勢力が一掃されたクーデター事件。八月十八日の政変ともいう。
8月13日、尊攘派らは攘夷祈願のための孝明天皇大和行幸を発表。これに先がけて、土佐勤王党員らの所属する天誅組が倒幕挙兵を行った。
このとき、朝廷内の公武合体推進派は呼応する勢力らと結託し、八月十八日に天皇行幸の中止を発表するとともに、三条実美ら過激派公家らの御所参内を禁止、さらに長州藩を御所の境町門警備の任から外させた。この後、尊攘派勢力らは京都を離れ、公武合体派は勢力を回復していった。


■禁門の変(きんもんのへん) (←ヤフーのマップを見る)
元治元年7月、前年の8月の政変で京都を追われた長州藩が、雪冤のため進発した京都で、諸藩連合軍に撃破された事件。
政変によって勢力撤退をした長州尊攘派らは、幕府・朝廷に赦免嘆願書を提出したがいずれも却下された。そんな中、6月に池田屋事件が勃発。激昂した長州勢は相次いで武力を前面に立てて入京し、開戦を布告。これを受けて幕府は朝廷より在京諸藩士らが長州を撃つよう勅書を引き出すことに成功した。
会津藩をはじめ、前年の政変時以来、長州藩に対峙した薩摩藩も、再び長州勢撃破に加わった7月19日、洛外で開いた戦端は、その日のうちに御所まで迫ったが、ほぼ一日で終結、長州勢は再び敗走した。
中岡慎太郎や、勝塾でともに学んだ安岡金馬ら龍馬周辺の多くの志士らは、このとき長州軍の一員として戦い、長州に敗走している。そしてこれが端緒ともなり、勝の海軍塾は閉鎖されることとなった。


■公卿(くぎょう)
「公」は摂政・関白・および太政大臣・左右大臣、「卿」は大納言・中納言、参議および散一位並びに三位以上をさす。参議は四位でもこれに含める。

■公家(くげ)
天皇・朝廷・公卿・朝臣(朝廷につける臣下)。

■グラバー邸(ぐらばーてい) (←ヤフーのマップを見る)
長崎県長崎市南山手町グラバー園内。英国人トーマス・ブレイク・グラバーの住居跡。国指定重要文化財。
邸内には隠し部屋も作られており、当時は「維新の黒幕で懐疑と隠密に満ちた志士活動の化道屋敷」とうわさされたという。倒幕派をかくまったり、坂本龍馬の指示を受けた近藤長次郎や高松太郎らと交渉を進めたりしたのも、この邸であった。


■黒船来航(くろふねらいこう) (←ヤフーのマップを見る)
嘉永6年6月3日、ペリー率いる四艦の黒船が浦賀に来航し、6日には江戸の近海まで進んで開港を要求する。幕府は翌年春の回答を約して、ひとまず退去させた。この間に幕府は海岸警備のため、芝と品川に邸宅を有する諸藩に動員を命じた。当時、江戸にあった龍馬にも動員令が下され、品川の藩邸に臨時御用として召集されている。

■月真院(げっしんいん) (←ヤフーのマップを見る)
京都市東山区八坂下河原町四六三番地。新選組を離隊した伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎、篠原泰之助ら15名は孝明天皇の御陵衛士を拝命し、慶応3年6月8日、高台寺搭頭である月真院にはいり、ここを屯所とした。彼らを高台寺党という。

■玄武館(げんぶかん) (←ヤフーのマップを見る)
東京都千代田区神田東松下町ニ五番地が跡地。北辰一刀流の千葉周作の道場。文政8年に日本橋より移転。斎藤弥九郎の練兵館、桃井春蔵の士学館と並んで江戸の三大道場と呼ばれた。
龍馬は桶町の千葉定吉道場で学んだと言われている。


■郷士(ごうし)
江戸時代には士農工商といった身分制度がありましたが、土佐藩では「士」の中でもさらにランクわけがされていて、坂本家は藩主に拝謁することもできない「郷士」という位でした。普通、「郷士」とは武士でありながら平常は農村地帯に住んで、農業を営んでいるものの事を言います。しかし土佐藩ではちょっと違っています。土佐は戦国時代、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)が支配していました。しかし、その息子の長曾我部盛親(ちょうそかべもりちか)の時、関ケ原の合戦(慶長5年・1600年)で西軍の石田三成に味方して敗れ去ったので、それに変わって土佐の藩主となったのは、東軍についた山内一豊でした。山内一豊はそれまでは遠州掛川5万石の大名に過ぎなかったのですが、土佐藩は20万国以上の大国だったので、国を治めるには連れてきた家来だけではとても足りませんでした。また長曾我部氏の遺臣、いわゆる一領具足は農民となった後に、新政権への抵抗として浦戸一揆などを起こしました。乱の平定後に入国した山内一豊は、桂浜で相撲興行を催して、一領具足73人を捕らえ、種崎の浜で磔に処しました。それ以降も弾圧が続けられたのですが、やがて一領具足の懐柔が山内家の抱える根本的な課題となりました。そこで、長曾我部家の旧家臣団をも家臣に取りたてたのですが、もとの家来から不平が出ないように、正式な武士と区別するため郷士という身分を作ったのです。

■神戸海軍操練所(こうべかいぶんそうれんじょ)
神戸に設けられた幕府の海軍教育機関で、勝海舟の建言を容れて文久3年4月24日に操練所の設立を命じ、勝をその用掛けに任じた。操練所の年間経費は3000両とされ、勝は神戸在勤を命じられて赴任し、経済的援助を受けるため5月16日に龍馬を越前藩に向かわせる。操練所が竣功したのは翌元治元年2月で、5月29日に修行正が募集された。6月に池田弥事件が勃発し、元塾生の望月亀弥太が重傷を追ったのち自刃する。さらに7月の禁門の変にかかわった者があったことから、幕府による塾生の氏名や出身地が内偵される。こうして操練所は幕府に猜疑の目を向けられ、同年10月に勝が御役御免を申し渡されて、翌年3月19日に廃止された。

■五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)
明治新政府発足当初の方針を表明したもので、天皇が神々に誓約する形のため「誓文」と通称される。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人身ヲシテ倦ザラシメン事ヲ要ス

一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ
一 知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ

龍馬の船中八策の精神がその底流にあるとされる。