◆ は行 ◆  2010/03/26 up 

■梅花隊(ばいかたい)
慶応4年2月に瀬戸内海の塩飽諸島で、長岡謙吉によって組織された部隊。 塩飽諸島では、豊臣秀吉の九州出兵などに功労のあった船形らを「人名(じんみょう)」と呼び、朱印状によって周辺の領海権が与えられた。これらの「人名」とそれ以外の島民との対立は古くから激しく、慶応2年の長州再征に際して、水主役として出兵の要請を受けた島民らが、のちに、その代償に人名権を求めたことから、慶応4年1月より暴動が勃発するようになった。このとき、讃岐国丸亀を拠点として周囲の警備にあたっていた長岡謙吉は、暴動鎮圧に介入し、平定させた。
長岡は平定後、管轄権を取得した塩飽諸島に警備のための民兵組織を結成させる。梅花隊の隊名を付け、構成員は約120名、17歳から30歳までの島民が入隊した。塩飽諸島の管轄が倉敷県に移管された慶応4年10月に解散した。


■万国公法(ばんこくこうほう)
幕末期に日本にもたらされた国際法。龍馬は海援隊によって同書出版の計画を立てているが、実施されたかについては不明である。
万国公法は、すべての規範を国際社会に置き、国家それぞれの関係を詳細に規定したもので、慶応元年に米人宣教師ウィリアム・マーチンがヘンリー・ホイートンの著書を漢訳、『万国公法』の名で出版した。
慶応3年のいろは丸事件で、紀州藩との談判に際し、龍馬は勝利のためにあらゆる手段を駆使しているが、そのひとつとして、万国公法の活用と出版を検討した。龍馬は同年5月11日に秋山某に宛てた書簡で、同人から万国公法を送られたことを謝している。そして同書を版木師によって印刷させるように依頼している。龍馬は広く世間に国際法の概念を流布させることによって、談判に際して世論の支持を集め、自身の正当性を強調させようとしたのだった。


■半魂香(はんごうこう)
明治32年2月から3月を除いた8月まで『文庫』に連載された、西村ツル(お竜)からの聞き書き。記録した安岡秀峰(重雄)は元海援隊士の安岡金馬の三男。金馬の長兄の妻が千屋寅之助の妹であり、寅之助がお竜の妹君枝を妻としたため、秀峰とお竜は縁戚関係にあり、取材が可能になったものと思われる。
執筆の動機は、坂崎紫瀾の『汗血千里駒』にある誤りを正すためだったといい、第一回では龍馬殺害を、その頃信じられていた新選組ではなく、紀州の三浦休太郎の指示とするなど、お竜ならでは龍馬像が披瀝されている。なお、お竜は「お良」と表記された。
第二回の本文には「大仏騒動及び、内祝言」「寺田屋騒動の原因」の小見出しが並び、以下、第三回は「薩摩下り」「西郷の憤怒」、第四回は「龍馬死後のお良」、第五回は「利秋お良の寝室を襲ふ」「お登勢の貞操」「周作の娘さの子」「近藤お登勢を縛す」、第六回は「将作夫婦の戒名」「龍馬の和歌」「恋の恨」「陸奥の豪遊」と続いて、いったん連載は休止されるが、まもなく「続半魂香」として再開される。


■藩論(はんろん)
明治元年12月に出版された小冊子。無許可発行のため、版元も著者も伏せている。しかし従来より海援隊の出版物とされ、千頭清臣は、龍馬が欧米諸国の憲法に触発されて口述し、長岡謙吉が筆記したものとする。テーマは王政復古後の「藩」のあり方を問うもので、序文にある小引、総論、各論からなっており、そこには天皇親政下における国政、藩主、藩政改革、選挙制度のあり方などが述べられているが、龍馬の思想とあいいれない面もある。