お田鶴さま考察 2001/04/05 up 

 お田鶴さまが、実在の人物だと勘違いしている龍馬ファンは意外と多いですが、これは司馬遼太郎先生の創作人物です。モデルは、土佐勤王党平井収二郎の妹である加尾と言われています。司馬先生は、竜馬に身分を越えたかなわぬ恋をさせることで、物語に強弱をつけられたのだと思います。
 ここでは、「竜馬がゆく」のお田鶴さま、「お〜い竜馬」の加代、「史実の人物」の平井加尾を比較検討して、「竜馬がゆく」のお田鶴さまとは何だったかを考えてみて下さい。




【竜馬がゆくのお田鶴さま】

 当たり前ですが、お田鶴さまは、「竜馬がゆく」にしか出てきません。この小説では家老福岡宮内の妹ということになっています。ちなみに竜馬の坂本家は福岡家の御預郷士です。竜馬がゆくでお田鶴さまの登場する場面をピックアップしてみました。

〔立志編−お田鶴さま〕

 剣術修行のために江戸へ行く途中、阿波の岡崎ノ浦ではじめて出会う。

〔立志編−寅の大変〕

 土佐に戻った竜馬を、お田鶴さまが訪ねて来た。竜馬に屋敷の裏木戸をあけておくので忍んでお来るよう勧める。ところが新宮馬之助の手引きで、竜馬はお田鶴さまではなく、お徳という面識のない女性の家に夜這いするはめになった。

  〔立志編−京日記〕

 江戸留学の期限が切れ、土佐に帰ることになった竜馬は、途中京都に立ち寄る。そこで三条家(尊皇攘夷派)に仕えたお田鶴さまと再会し、ついに二人は結ばれた。
 脱藩した竜馬は江戸で勝海舟の弟子になる。勝に連れられて、千葉重太郎とともに幕府軍艦で大阪に着く。そこから単身、京都へ行く。竜馬はお田鶴さまのいる三条家を訪れ、再会する。待ち合わせ場所に行く途中、火事で焼け出されたおりょうを助ける。

  〔狂瀾編−物情騒然〕

 神戸海軍塾の完成を前に、ある日、竜馬はお田鶴さまを訪れた。お田鶴さまはおりょうのことを快く思っていないようだ。二人は時勢を語り、竜馬は自分の思いをお田鶴さまに打ち明ける。

〔怒濤編−摂津神戸村〕

 おりょうが、神戸村に竜馬を訪ねて来たが、竜馬は沖の船に泊まっている。そこでおりょうは、生田の庄屋屋敷に泊まることにした。その庄屋屋敷に前髪を残した若侍がやって来た。福岡小三郎と名乗るその侍の姿は、薩摩絣に黒縮緬の羽織、おろしたてのマチ高袴をはいていた。廊下ですれ違ったおりょうは、その若侍がお田鶴さまであることを見抜いていた。おりょうはお田鶴さまを訪れ、問答が始まる。どうして男装しているのかとの質問に、お田鶴さまは懐中より、むかし竜馬からもらったという手紙を見せた。

天下形勢切迫致候につき

 一、マチ高袴
 一、ブッサキ羽織
 一、宗十郎頭巾
 一、ほかに細身の大小

右おのおの一揃御用意あり度存上候

 その後も会話が続いたが、二人は全くかみ合わない。お田鶴さまは「このままお話を聞いていると、どのような狼藉を働くか、自分でも自信がない」と言って出て行った。


【お〜い!竜馬の加代】

 「お〜い!竜馬」でお田鶴さま的な役割をはたしているのは、土佐藩城代家老佐々木南左衛門の娘である加代です。加代は平井収二郎の妹の加尾をモデルにしたというより、「竜馬がゆく」のお田鶴さまをモデルにしたような感じがします。
 まず身分ですが、平井加尾は新留守居組(上士の中でも最下層)の娘ですが、お田鶴さまと加代は家老の娘です。また、加尾は嫁ぎ先(江戸の旗本で尊皇攘夷の志士、安政の大獄で切腹)が決まったある日、男装して坂本家を訪ね、竜馬に夜這いを勧めています。これは、竜馬がゆくの「立志編−寅の大変」のお田鶴さまにそっくりです。ただ、「お〜い!竜馬」の竜馬は、「竜馬がゆく」の竜馬とは違い夜這いに成功してますが....(^_^;)



【実在した人物、平井加尾】

 龍馬の同志である、土佐勤王党平井収二郎の妹の加尾(又はかほ)は、龍馬より4歳下で初恋の人と言われています。
 加尾は、山内容堂の妹友姫が京都の三条公睦に嫁いだため、その侍女として京都の三条家(尊皇攘夷派)に仕えました。その後、のちの警視総監西山直次郎と結婚しています。以下は、龍馬が加尾に宛てた有名な手紙です。

先づまづ御無事とぞんじ上候

天下の時勢切迫致し候に付き、

 一、高マチ袴
 一、ブツサキ羽織
 一、宗十郎頭巾 外に細き大小一腰各々一ツ、
    御用意あり度存上候

九月十三日               坂本龍馬
 平井かほどの

 これは、加尾に男装させて勤王運動をさせようとしたとの説もあるのですが、「竜馬がゆく」でお田鶴さまが竜馬から貰ったという手紙と瓜二つです。このことが、お田鶴さまのモデルが平井加尾だと言われる一番の理由です。



【田鶴という名の実在した女性】

 龍馬の継母伊与は、川島家に嫁ぎ未亡人となりましたが、同家を里にして龍馬の父八平の後妻になってます。その川島家に猪三郎という人がいて、「田鶴」という名の娘がいたそうです。田鶴は龍馬より14歳下ですが、龍馬と田鶴は恋仲で二人が結婚するつもりだったと川島家ではずっと言い伝えられていたようです。
 司馬先生の「お田鶴さま」の名前は、この川島家の田鶴から取ったのではないでしょうか。

参考文献:坂本龍馬−隠された肖像−(新潮社・山田一郎著)




【竜馬がゆく狂瀾編のあとがき】

 竜馬がゆく狂瀾編の「あとがき」の文頭に、司馬遼太郎先生はびっくりすることを書かれています。
 ときどき、竜馬の故郷だった高知へゆく。先日も、飛行場まで私を追ってきてくれた町のひとが、「私は、福岡のお田鶴さまの家の足軽をつとめていた者の子孫です」と名刺をくれた。腕に真っ黒な毛がはえていて、いかにも土佐っぽという感じの年配のひとだった。
  ――― 以下省略 ―――
 これは、当時連載されていた「竜馬がゆく」を読んだ人が、作者である司馬先生に『竜馬がゆくで先生が描かれたお田鶴さまの家である福岡家の・・・・』という意味だと私は理解しますが、皆さんはどう思われますか?
 いずれにしても、お田鶴さまをあれだけ生き生きと描いて、あとがきにこの文章があったら、たいていの人は、お田鶴さまが実在したと信じて疑わないのではないでしょうか。



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