龍馬と北海道 2001/09/29 up 

 私は札幌に住んでますが、もともと龍馬と北海道の関係には興味がありませんでした。ましてや坂本家の子孫のことなど、龍馬とは関係のないことだと思ってました。しかし、色々と龍馬のことを勉強していくうちに、龍馬が北海道に何かを求め、何かを目指していたのではないかと考えるようになりました。



【龍馬が目指した北海道】

 司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」を読んでいると、蝦夷地開拓は龍馬の独創のような雰囲気ですが、幕末期の蝦夷地実地調査は幕府でも行っております。幕府老中阿部正弘は安政3(1856)年と安政4年に家臣らによって約半年間の蝦夷地の実地調査を行っているのです。
 土佐の北添佶馬らの蝦夷地調査も龍馬の指図のように思われますが、それを決定付ける資料はありません。
 北添は能瀬達太郎ら三名の同行者と文久3(1863)年5月2日、越前敦賀港から蝦夷地に向け出立しました。往路に小松小太郎(22歳)が病死しておりますが、当時の蝦夷行きが大変困難だったことが想像されます。その後、三名は箱舘、中富洋、江差と回り、6月19日に奥州大間に上陸、盛岡、仙台、福島、白河を経て、7月10日に江戸に帰着しております。江戸では千葉定吉邸に寄宿した事実がありますので、この蝦夷渡航が龍馬の指示と考えられるところなのかもしれません。また、同年7月22日には能瀬達太郎は千葉重太郎の紹介で、勝海舟を訪れています。
 龍馬はこの時期大阪から江戸に入り、やはり千葉邸に滞留しています。龍馬が北添らに蝦夷行きを指示したのではなければ、この時に江戸で北添らから話しを聞き、蝦夷開拓に魅了されたのではないかと思われます。
 元治元(1864)年6月17日、下田で龍馬と会った勝は、「京で暴れる浪士に蝦夷地開拓をさせる」という話しを龍馬から聞いて日記にその事を書いています。それまで北添が中心となって進めていた蝦夷地開拓ですが、突発的なアクシデントが起きました。北添が6月5日、京都の池田屋事件で斬殺されてしまったのです。これで、龍馬の「尊攘派の北海道移住案」は暗礁に乗り上げてしまいました。
 お竜は晩年「北海道ですか、アレはずつと前から海援隊で開拓すると云つて居りました。私も行く積もりで、北海道の言葉を一々手帳へ書き付けて毎日稽古して居りました」と語っていますので、龍馬がお竜を連れて海援隊と北海道を開拓しようと考えていたのでしょう。この考えは、後の明治新政府の屯田兵として受け継がれています。



【龍馬の子孫と北海道】

 ご存知のように、龍馬とおりょうの間には子供が生まれませんでした。維新の功労者である坂本龍馬の家系を途絶えさせないために、明治4年8月20日、朝旨により龍馬の長姉である千鶴の長男高松太郎は「坂本直」として龍馬遺跡を相続しました。この坂本直は維新後、徴士に召され、箱舘府権判事を命じられました。
 ですから、坂本龍馬の直系というと坂本直の子孫ということになるのですが、坂本直には実子が無かったのか、数人の養子縁組をしております。そのなかの直衛が家督を継いだようですが、さらにその直衛に実子がなかったのか、坂本家の本家を継いだ千鶴のもう一人の息子直寛の長男である直道を養子の貰い受け、龍馬の系統を絶やさないようにしたようですが、残念ながらこの系譜は、直道の子供の直臣さんと寿美子さんで龍馬から数えて5代目で途絶えております。
 ですから残念ながら龍馬の子孫はおりません。
 ただ、先に記した千鶴のもう一人の息子直寛(龍馬の兄権平に養子縁組)は明治30年に北見のクンネップ原野に農場を開き、翌年、石狩国樺戸郡月形村浦臼に移住してます。ちなみに直寛の孫である坂本直行は北海道で有名な画家(お土産で有名な六花亭の包装紙に直行さんの絵が使われています)です。


坂本家末裔の山岳画家




参考文献 ■ 歴歴史読本(1997年8月号)龍馬の夢 蝦夷地開拓 (新人物往来社)伊東成郎著
■ 坂本龍馬事典(新人物往来社)土居晴夫著
■ 坂本龍馬事典 〜北海道開拓〜 (新人物往来社)土居晴夫・小西四郎・山本大・江藤文夫・宮地佐一郎・広谷喜十郎著

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