龍馬は外国へ行ったことがあるのだろうか?  2000/11/08 up 

 以前、他の方のBBSで「龍馬は外国へ行ったことがあるのでしょうか」との投稿に、「あれは、『お〜い!竜馬』の創作ですよ」と私が答えたところ、お詳しい方から「あながち龍馬が海外に行ってないとは言えませんよ」とご指摘を受けました。



 『THE MAKING OF お〜い!竜馬』の「真実と創造の間」の項で武田鉄矢氏と小山ゆう氏は次のように語られています。
小山氏> 上海行きは、でもよかったですね。あれだって絶対なかったなんて言えないし。
武田氏> 上海行き、あれは長州の一部の資料に残っているんですよね。
小山氏> そうそう、あったんじゃないかっていう、そういう人もいて。
武田氏> 長州が密航船を上海に仕立てているんですよね。その中に、坂本竜馬ってあるんですよ。それはどう考えても、脱藩してどこにいたかわからない二か月間・・・・・。
小山氏> わからない二か月があるんですよね。

 歴史別冊読本「土佐の風雲児 坂本龍馬」(1989年8月発行)に、維新史研究家の一坂太郎氏が「龍馬『上海密航』の謎」というタイトルで龍馬の海外行きの可能性について書かれております。
 氏が長府藩の尊皇攘夷派を結集してできた「報国隊」の軍監・福原和勝を『明治維新人名辞典』(昭和56年・吉川弘文館)で調べようとした時、次のような記述を見つけました。(846ページ)

(慶応)三年赤間関在番役兼内用掛を命ぜられ、のち内命により坂本竜馬と共に清国上海に渡航して外勢を視察した

 これ以外にも、福原和勝と龍馬が上海に渡ったとする同様の記述が、徳富蘇峰『近世日本国史・明治天皇御宇史北越戦争篇』(昭和19年・明治書院)、橋本昌樹『田原坂』(昭和47年・中央公論社)、藤田武男『長府藩花神群』 (昭和61年・長府博物館友の会)などに見られるらしいのです。
 上の記述のように、福原和勝と龍馬が上海に渡ったとすれば、慶応3年の龍馬の年譜に、幾日かの空白があるはずです。文久3年に井上馨・伊藤博文が横浜から上海まで4日かかっているので、10日あれば下関と上海を往復できる計算になります。慶応3年の龍馬には、10日間の空白がいくつもあるのです。
 ※武田鉄矢氏がおっしゃっている、脱藩してどこにいたかわからない二か月間は、文久2年の夏のことですから、一坂太郎氏が問題提起された期間とは違います。
 あくまでも可能性の話しですが、龍馬が上海へ渡ったということはゼロではないのです。

参考文献:歴史別冊読本「土佐の風雲児 坂本龍馬」〜龍馬『上海密航』の謎〜 一坂太郎著 新人物往来社



戻る