坂本栄考察 2001/10/15 up 

 「竜馬がゆく」でも「お〜い!竜馬」でも、竜馬脱藩の時に次姉の栄が刀を渡し、その罪を隠すために自害するということになってましたが、史実はどうだったのでしょうか?



【栄が刀を渡したと言われ出したのはいつ頃から?】

 明治16年の『汗血千里駒』から一貫して、龍馬に刀を与えたのは乙女でしたが、昭和37年より「産経新聞」夕刊に連載された『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)によって、栄であるとされました。なぜ、司馬遼太郎氏はそれまでの定説であった乙女から栄としたのでしょうか。実は、このエピソードは坂本家の関係者より提供されたものだったのです。坂本家の本家である才谷屋に嫁いだ内田さわ(龍馬脱藩の時には25歳)の孫で、明治24年生まれの穴戸茂>が『竜馬がゆく』の連載を知り、司馬遼太郎氏に匿名で通知したのでした。

参考文献:坂本龍馬101の謎(新人物往来社、菊地明・伊東成郎・山村竜也著)




【関連本の扱い】

『坂本龍馬のすべて』平尾道雄編・新人物往来社 昭和54年発行《栄説》
 次姉栄女については、この世に一切の記録の残されていない謎の女性であるが、栄女こそ龍馬脱藩の前後、銘刀(肥前忠広とも土佐の名工吉行とも云われる)を与えた人である。坂崎紫欄の『汗血千里駒』等には乙女が刀を渡したことになっているが、真実はこのお栄が贈ったものである。このため禍が一族に及ぶのをおもんばかって自殺したと云われる。栄女の密葬墓が、昭和四十二年、百年ぶりに掘り出され、立派に改葬建墓したことを、末裔土井晴夫氏は『坂本家系考』で報告している。これによるとお栄は高知築屋敷の柴田家に嫁したが、理由があって離退、そして龍馬に与えた刀のため、不幸な生涯を終わった。
 脱藩の頃、兄権平は弟の企図を感じて彼の佩刀を取りあげ、親類中にも警戒をふれていた。才谷屋の倉には刀はいくらでもあったが、家人は「倉へは灯りを入れられん、女は倉へは手をつけられん」と家憲を楯に辞ったので、栄女は弟の窮状を憐れみ、大志を励まして秘かに与えたという。彼女こそ龍馬の心を知り、彼のような型破りの弟に、献身して悔いなかった女性である。「白露の玉のおすゝきいゑつとゝ月かげながら手折きや君」の遺墨一首があったと云う。
宮地佐一郎氏が書かれた章「龍馬をめぐる女」の「坂本家三姉妹」より抜粋

『龍馬百話』宮地佐一郎・文集文庫 平成3年発行《???》
 栄の墓は明治、大正と不明だったが昭和43年のこと、坂本家の縁者の方々が、同家の墓所を改修した際、高知市丹中山坂本家墓所で地下2.5メートルから髪の毛と遺骨が発見されて、これが栄の密葬のものと推定されて、末妹乙女の傍らへ新しく「坂本栄之墓」「文久ニ年三月歿 坂本直足ニ女 昭和四十三年一月建立」と彫り、「百年の埋木今日ぞ花薫る」の句を刻んで立てた。
 ところが昭和63年3月、同じ丹中山の坂本家墓地から南東約30メートルのふもとで、
   

「柴田作衛門妻 坂本八平女」「弘化□□九月十二日」


と刻まれた墓が発見された。但し正面碑銘文が磨滅したものか作為的に削り取られたものか、解読不能であった。彼女の没年が弘化年間(1844-1848)なら、龍馬脱藩の文久ニ年より十数年以前となる 栄は柴田家から離縁されず、また龍馬に刀を渡すはずもなかった、ということになる。これまでの通説から「坂本栄之墓」が覆されることになるのである。
 「もし作為的なら、二十年前にみつかった遺骨が本当の栄であり、柴田家の内部に複雑なお家事情があったと思われる。また(墓が)自然破損ならこれが栄の墓である可能性が大きい」(昭和63年3月15日「高知新聞」土井晴夫氏談話)としているが、坂本家と栄ににかかわるミステリアスな話題である。
 
第二十一話「次姉栄の自刃」より抜粋

『坂本龍馬大事典』新人物往来社編 平成7年発行《???》
 土佐藩士坂本直足の次女、家系には柴田氏に嫁ぎ後離退とあるのみという。一説によると文久二年、龍馬脱藩のさい刀を渡したため、責任を取って自害したと伝えられる。これはあくまで伝説的な逸話であり、文献資料は確認されていない
 ところが、昭和63年3月、高知市丹中山で栄の墓碑が見つかり、「柴田作衛門妻」「坂本八平女」「弘化    九月十三日」等と銘記されていた。墓碑銘が性格ならば栄は、龍馬脱藩のずっと以前にこの世の人ではなかったことになる。高知市山手町丹中山の坂本家墓地にも墓。
一坂太郎氏が書かれた「しばたえい」の項より抜粋




【三つの系図の謎】


 『坂本龍馬全集』(宮地佐一郎編)には、三つの「坂本氏家系図」が収録されています。そのうち「其のニ」「其の三」は、明治3年10月に藩庁より要請があって、製作した家系図の控えとなってます。
 「其のニ」(元のもの)には春猪の先養子清次とその子供、後養子の習吉とその子供たちが記されています。ただし、明治3年の時点で記録できるはずのない習吉の子供たちについては後日に追加したものと考えられます。
 「其の三」には、権平・女子(高松順蔵妻)・女子・龍馬とあり、「其のニ」との対比から、3番目の女子は乙女を指していることは間違えありません。しかし「其のニ」「其の三」には、もう一人の姉「栄」の名前がありません。これが、龍馬脱藩時に栄が刀を渡したと言われる一つの理由になってます。
 「其の一」は、天保9年の『先祖書指出控』を系図化したものですが、この系図(元のもの)には春猪の後養子となった習吉までが記されているそうですから、「其のニ」と同様に、後日に追加されたのでしょうから、3つとも同時期に作られたということになります。
 なぜ、「其のニ」「其の三」には、もう一人の姉「栄」の名前がないのでしょうか。『坂本龍馬101の謎』新人物往来社(平成6年)の中で、菊池明氏は以下のように説明されております。

  • 「其のニ・三」系図が、藩庁に提出されたものの控えである

  • その提出系図を製作する前に、下書きとして『先祖書指出控』を参考にしながら不足分を書き足したものが、「其の一」の系図だったのではないだろうか

  • 明治4年に龍馬の家名を立てるために藩庁より求められ、まず「其の一」が製作されたに違いない

  • 「其の一」を担当の役人が不必要な記載を省かせ、新たに提出されたのが、「其のニ・三」だったのでは

  • 龍馬の家名ということを中心に考えれば、千鶴は坂本家の血をひく直寛を生んでいるので欠くことができない

  • 乙女は岡上家から戻って坂本の人間になっていた

  • 栄は柴田作衛門の妻として死亡している (次の【栄の墓】参照)
  • 参考文献:坂本龍馬101の謎(新人物往来社、菊地明・伊東成郎・山村竜也著)



    【栄の墓】
     栄は出戻りではなく、嫁ぎ先の柴田家の人間として死亡したのです。しかし、その墓(柴田栄としての)は昭和50年前後まで、不明とされていました。そのため、昭和43年に坂本家の縁者が墓所を改修したおり、地下から髪の毛と遺骨が発見されたことを機に、これを栄のものとして「文久ニ年三月歿 坂本直足ニ女」の石碑が建立されています。(左の写真)
     ところが、栄の死は龍馬の脱藩とは無縁だった。したがって、この石碑は単に「栄女伝説を戒める記念碑」となってしまってます。
     栄の墓は、人知れず高知市山手町丹中山山中にあったのです。それが発見され、昭和63年3月11日付の『高知新聞』紙上に、社会面トップで報道されたのです。そして、「この墓が確かに栄の墓なら通説は覆る」としています。

     この報道の何年も前に、柴田栄の墓を発見された方がいらっしゃいます。「龍馬からのメッセージ」という本を自費で出版された高知在住の写真家である前田秀徳氏です。「龍馬からのメッセージ」109ページ『(45)坂本 栄の墓について(龍馬の姉)』から以下の文を抜粋します。
     (坂本家墓所へ行く途中の説明看板から西の道は約八メートル行った周辺の左上)
     この墓は最近になって、「栄の墓石」ではないかと言われ、戒名が剥離し判明不能などと話題になった墓碑である。今も、調査段階であり、「栄」の墓であるかどうかの結論は、敢えてさけておく事にする。が、私がこの墓を見付けた時の事を回想してみると、今日のようにコンクリートで整地されてはなく、周辺は石垣であり、草木が生え茂っていたように記憶している。そして今の墓の場所とは違い、目測記憶で三メートル程、北西の所で、墓石は横にして倒れていた。この時に、側面の「坂本 八平 女」の文字が見え、気になり手帳に記していた。(昭和四十八年頃)
     それから以降、整地のためか、何かの理由で、場所が現在の場所周辺になったのだろうと推測している。当時の手帳を見ると、完全剥離はしておらず、次のような文字が見えていたので記録しておく。
    ※右側「弘化乙已二年九月十三日」(一八四五年頃と思われる)
    ※左側「柴田作衛門妻・坂本八平 女」
    ※正面「貞?院栄妙墓」(二字目は欠落)
    また、この時の調査では、横の柴田宇左衛門勝成」の墓には何故か、気が付かなかったことも記しておきたい。
     前田秀徳氏は慎重に「栄の墓であるかどうかの結論は、敢えてさけておく事にする」とされていますが、柴田作衛門妻かつ坂本八平女とは、龍馬の姉である「坂本栄」意外は考えられないでしょう。ということは、栄は出戻りではなく、嫁ぎ先の柴田家の人間として死亡したのです。坂本家は神道なので、墓に戒名はありませんが、栄は柴田家の人間として「貞?院栄妙」という戒名をつけられたのです。
    参考文献: 坂本龍馬101の謎(新人物往来社、菊地明・伊東成郎・山村竜也著)
    龍馬からのメッセージ (自費出版・前田秀徳著)





    【まとめ】
    栄説を支持する人は、次のような論法です。

    (イ)栄が刀を渡したとした場合、出戻りでなければ柴田家が処罰を受ける
    (ロ) 栄は柴田家を離縁された
    (ハ) 坂本氏家系図に栄がない
    (ニ) 坂本権平が家を守るため密葬した
    (ホ) 墓所改修時、地下から髪の毛と遺骨が発見された

     まず(イ)(ロ)ですが、【栄の墓】で書いたように、栄は離縁されてません。次に(ハ)ですが、これも【三つの系図の謎】で書いた理由で特に問題ないことで、(ニ)の理由ではありません。最後に(ホ)ですが、 これは(イ)〜(ニ)が成り立つという前提で、発見された遺骨を「栄のものでは...?」としたことですから、当然、他人のものだったのでしょう。
     栄は弘化二年、龍馬が脱藩する16年も前に死んでいたのです。もし、龍馬が脱藩するときに栄が刀を渡したのだったら、多数残っている龍馬の手紙に栄が出てこないというのはうなずけません。龍馬はそんな薄情な男ではないでしょうから.....
     「栄が龍馬脱藩時に刀を渡した」というのは、作られた伝説だったのです。
     現在は、墓碑のかたわらに「高知県歴史研究会」によって、「通説の誤り正すため栄女の没年あざやかなり」と記された白い木碑が建てられているそうです。

    明治16年『汗血千里駒』から一貫して、龍馬に刀を与えたのは乙女
    昭和37年『竜馬がゆく』から、龍馬に刀を与えたのは栄が通説となる
    昭和43年墓所改修時、地下から髪の毛と遺骨が発見され、これを栄のものとして石碑建立
    昭和48年頃前田秀徳氏、「貞?院栄妙墓」「柴田作衛門妻・坂本八平 女」と書かれた墓を発見
    昭和63年『高知新聞』紙上に「栄の墓発見」と報道
    現在「貞?院栄妙墓」が完全剥離
     最後に、「栄伝説」関連を時系列にまとめてみました。栄の墓の文字が消されたのは高知新聞報道の後だったのではないでしょうか。もしそうなら、これは「栄伝説」を守りたい人間の、卑劣な行為だった可能性が大です。大変悲しいことです。最近、権威ある考古学者が、遺跡をねつ造したというニュースがありましたが、なぜ真実を歪曲しようとする人がいるんでしょうか....
    参考文献: 龍馬からのメッセージ (自費出版・前田秀徳著)
    坂本龍馬101の謎(新人物往来社、菊地明・伊東成郎・山村竜也著)
    龍馬最後の真実(筑摩書房、菊地明著)






     と、このページをアップしたのが平成12年9月(平成13年10月に加筆有)でしたが、平成16年に「龍馬からのメッセージ」の著者である前田秀徳氏とお会いすることができました。その時、氏が墓石の文字の剥がれに関して、「あれは自然に剥がれたものだよ」とおっしゃっていました。丹中山の事を知り尽くした方からの言葉なので、まず間違えはないだろうと思います。



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