龍馬は梅毒? 2003/03/25 up 

 龍馬は梅毒であったという話しがありますが、ご存知でしょうか。
 梅毒とは何世紀も前からある性病のひとつで、性行為やキスによって感染します。症状の一つに、髪の毛が抜け落ちるということがあります。江戸期の日本では吉原などを代表とする遊郭を中心に、整備された街道を伝わり、またたくまに伝播したと言われております。



【中江兆民の言葉】

 土佐藩出身で明治の自由民権論者である中江兆民が、龍馬が梅毒であったと言っていたらしいのです。「言っていたらしい」というのは、中江兆民本人が何かに書いたわけではなく、その愛弟子でありる幸徳秋水が残した文章にそのことがあります。

「兆民先生」(幸徳秋水著・岩波文庫)の「第二章 少壮時代」より

当時長崎の地は、独り西欧文明の中心として、書生の留学する者多きのみならず、故坂本竜馬君等の組織する所の海援隊、亦運動の根拠を此地に置き、土佐藩士の来往極めて頻繁なりき。先生曾て坂本君の状を述べて曰く、豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ、予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの方言もて、『中江のニイさん煙艸を買ふて来てオーセ、』などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしことしばゝなりき。彼の眼は細くして其額は梅毒の為め抜上がり居たりきと。

 上記のように、「龍馬の額は、梅毒のためにぬけ上がっている」と言っていたようなのです。ちなみに、中江兆民のことを書いた「TN君の伝記」(なだいなだ著・福音館書店)は大変面白いので、まだ読んでない方は、このページに来られたことを機会に、一度読まれることをお勧めします。



【梅毒に対する当時のイメージ】

 正直なところ、現在は「梅毒にかかった」と言ったら良いイメージはないですよね。前記したように、梅毒は性行為によって感染するので、病気そのもののイメージと性に対する道徳感から来るマイナスイメージがついて回ると思います。しかし売春防止法が実施されたのは昭和33年のことで、この時に日本の公娼制度は廃止されたわけで、それまでは成人男子が遊郭で遊ぶことは決して現在のようなマイナスイメージがあったわけではありませんでした。
 ですから、龍馬が梅毒であっても、梅毒でなくても決して評価が下がるものではありませんので、特に女性ファンの方はその辺をご理解くださいませ。

 「江戸の性病 梅毒流行事情」(苅谷春郎著・三一書房)に江戸庶民の梅毒観が書かれておりましたので、引用してみます。

  • 鎖国直前に来日した宣教師ルイス・フロイスは「日本では、男も女もそれ(梅毒のこと)を普通の事として、少しも羞じない」記している。
  • 吉原遊郭、岡場所などを介して凄まじい勢いで伝播していく梅毒の猛威に対し、さほど恐れることもなく、おおらかに受け入れている日本人の姿に接し、彼ら(当時来日した外国人)はただただ驚きをもってその実態を観察している。
  • 遊女が梅毒に感染し暫くすると「鳥屋(とや)につく」と言い、一人前の遊女になった証とされた。
  • 男子は梅毒に感染してようやく一人前として扱われ、誰もが自分が感染したことを隠そうとしなかった。

 いかがでしょうか?
 現代人の我々には驚くばかりです。ひょっとしたら、中江兆民は尊敬の念をこめて「其額は梅毒の為め抜上がり」と言ったのかもしれませんね。(^_^;)



【本当に梅毒だったのか】

 梅毒であったとしても、龍馬ファンとして悲観することはないことはわかりましたよね。でも、本当に梅毒だったんでしょうか。龍馬が梅毒だったと証言しているのは、今のところ中江兆民だけで、しかも、額の毛が薄いということだけです。下の写真を見てください。

若い頃 晩年

 確かに若い頃に比べ、晩年の写真の額は広いです。
 「保険同人ハンディ家庭の医学」(保険同人社)によりますと、梅毒の症状は以下の通りです。

  • 感染してから3週間めごろに小さな赤い硬いはれものとなり、水ぶくれをつくり、破れてなおる。
  • 熱が出ない人もいるが、38〜39度前後の発熱をともない、全身に小さな斑点が出る。
  • 人によってはわきのしたや陰部に湿疹が、顔やひたいににきびのようなものが、首筋や背中にノミに刺されたような小さな赤い盛り上がりがいくつもでき、これなが10円硬貨ほどの大きさにひろがり、平たくたく上がってくる。
  • 手足などの毛穴が小さく赤くはれはがってきたりもするが、それほどかゆくない。
  • 頭髪が虫食いに脱毛することがある。

 梅毒での脱毛は虫食い状になるようです。写真のように、前頭部から頭頂部にかけての脱毛は男性型脱毛症(いわゆる若はげ)だそうです。

 私は龍馬は梅毒ではなかったと判断しますが、いかがでしょうか。


戻る