●白峰駿馬の墓    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山   
東京都港区南青山2 

 墓の位置は、1種ロ5号8側。
 長岡藩出身。海援隊士。
 文久2年に江戸に出て、勝海舟が頭取をつとめる軍艦操練所で学ぶ。元治元年4月には神戸に赴き、勝の海軍塾に入門し、龍馬らと修行に励んだ。慶応元年閏5月には亀山社中結成に参加する。翌2年10月に購入した対極丸に船長として乗り組み、大阪に滞在。翌3年6月に上京して酢屋に下宿した。
 慶応4年には隊を離れて新政府に出仕したが、菅野覚兵衛が戊辰戦争から凱旋すると、明治2年にともにアメリカへ渡航する。同7年に帰国後は海軍省に迎えられるが、間もなく官を辞し、日本最初の民間造船所である白峰造船所を設立して活躍した。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●中江兆民の墓    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山   
東京都港区南青山2 

 墓の位置は、1種イ1号24側。
 中江兆民生は「東洋のルソー」といわれ、自由民権運動の指導者です。長崎留学時代に坂本龍馬と出会い、「中江の兄さん、煙草を買うて来ておーせ」といわれ、龍馬にだけは喜んで従ったという話しがあります。
 ちょっとでも興味がある方は、ぜひ、「TN君の伝記」(なだいなだ著、福音館書店)を読んでみてください。「TN君の伝記」には「中江兆民」という名は出てきませんが、これは中江兆民のお話です。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●大久保利通の墓    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山   
東京都港区南青山2 

 墓の位置は、1種イ2号15〜17側。
 西郷隆盛、木戸孝允とともに明治維新の三傑と称される。しかし、他の二人とは異質で、冷徹なほど現実的であり、情と義の世界に生きる西郷とはあまりにも対照的なリアリストぶりゆえに、日本人の間ではあまり人気がない。久光の藩改革では、つねに優秀な策士として薩摩藩を動かした。慶応3年、岩倉具視と結んで倒幕の密勅を得る。
 維新後の新政府では、より実際的な政治家として数々の新体制作りに参加した。参与、内閣事務掛、総務極顧問などを歴任する一方で、木戸孝允らとともに尽力して、まず版籍奉還を推進した。さらに廃藩置県によって、政府が全国を統治下に置くという政治の基本的構図を完成させた。一方、幕末からの重要課題であった条約改正にも取り組み、岩倉使節団を海外に派遣するなどしたが、改正は実現しなかった。その後、参議と初代内務卿を兼任したが、征韓論をめぐって幼少時代からともに時代を生きてきた西郷隆盛と対立、明治10年の西南戦争は、私情を交えぬ彼らしいやり方でこれを武力鎮圧した。しかし、西郷のシンパたちの激情を招き、東京紀尾井坂で暗殺された。47歳であった。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●平井(西山)加尾の墓    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山   
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 墓の位置は、1種ロ14号9側。
 平井収二郎の妹。安政6年12月、山内容堂の妹の友姫が三条公睦に嫁いださいに、御付役として上洛し、公睦死後も文久2年まで三条家に仕え帰国した。
 龍馬の初恋の人と目されているが、龍馬が文久3年乙女にあてた手紙では、千葉佐那と比較して、顔形は加尾が少し劣ると評しているものの、佐那が「今の平井」と同様だとしているところから、一時の恋愛対象であったことは間違いない。
 慶応2年に西山志澄と結婚し娘をもうけ、のちに娘に養子を迎えて平井家を継がせている。享年72歳。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●後藤象二郎の墓    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山   
東京都港区南青山2 

 墓の位置は、1種イ13号24側。
 早くから父をなくし、姉の夫である吉田東洋に教育された。東洋が暗殺されてからしばらく不遇の時期が続いたので、江戸に出て航海術などを学んで時期を待っていた。山内容堂によって尊攘派が追放されると土佐に帰り、大監察として容堂の右腕となり、武市瑞山以下土佐勤王党の弾圧に乗り出した。
 しかし時代は変わり、長州は藩論を尊攘から討幕へ進め、薩摩も公武合体は時代遅れと討幕へと向かい、薩長同盟が成立した。土佐でも討幕には踏み切れないものの、時勢の転換に何とか対応しなければならないとの考えが強まった。慶応3年、龍馬と会談して、藩論の転換を決意した。象二郎は龍馬・中岡慎太郎の脱藩を赦し、それぞれ海援隊・陸援隊の指揮を委ねて藩への協力を求めた。その後、龍馬と土佐藩船水練(夕顔)で京都にのぼったが、この船中で龍馬が記述したのが大政奉還のための「船中八策」であった。土佐に帰ると象二郎はただちに登庁して容堂に会い、大政奉還の腹案を説明した。容堂も長州・薩摩を出し抜き土佐が藩が一気に政治の表舞台にあがれるこのアイディアを藩論として決定した。
 明治新政府では参与、参議に任じられたが、征韓論に敗れて野に下り、民選議員設立の運動をした。後に板垣退助らと共に自由党を結成、通信大臣・農商大臣とふたたび政府の要職に就いた。病死したとき、明治天皇は後藤に哀悼の勅語を賜った。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●野村辰太郎の墓    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山   
東京都港区南青山2 

 墓の位置は、1種イ7号2側。
 野村維章。海援隊士。慶応2年6月、土佐を脱藩して亀山社中に加入し、10月には社中が購入した大極丸には白峰駿馬とともに船長として乗り組んだ。龍馬の死後の慶応4年1月、海援隊による長崎奉行所の占拠にも参加するが、その際に佐熊藩士を誤殺した沢村惣之丞の切腹に立ち会った。海援隊解散後は、長崎振遠隊の幹部として戊辰戦争に従軍、奥羽方面で戦功を上げる。維新後は茨城県令などをつとめたのち司法官に転じ、控訴院検事長まで進んだ。享年60歳。男爵を授けられる。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●吉井友実    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山   
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 墓の位置は、1種イ6号4側。
 吉井幸輔。薩摩藩士。慶応2年1月、寺田屋での遭難で、事件を聞いた西郷隆盛が伏見に駆けつけようとするのを制して馬で急行し、龍馬とおりょうが京都に向かう際には一小隊の警護をつけた。3月の龍馬とおりょうの鹿児島行にも同行して、屋敷に滞在させ、湯治旅行にも同行している。近江屋事件では田中顕介とともに現場に駆けつけた。維新後は元老院議官などをつとめ、天皇の側近に仕えた。享年65歳。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●斎藤利行の墓    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山   
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 墓の位置は、1種イ1号34側。
 渡辺弥久馬。十三代土佐藩主山内豊てるの御側物頭となり、おこぜ組の一員として活躍。のち反対党のため失脚。嘉永年中、吉田東洋に抜擢され、新おこぜ組の一員となる。慶応3年、イカルス号事件の際、後藤象二郎を扶けて談判要員として活躍。
 慶応3年9月24日、龍馬が長崎より銃器を運んで高知浦戸へ入稿した際、龍馬からの書状を見た渡辺は時勢切迫をしり、銃器購入を決めた。
 維新後は斎藤利行改名。明治3年2月刑部大輔、5月参議。明治8年7月元老院議官。享年60歳。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●尾崎三良    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山   
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 墓の位置は、1種イ4号22側。
 戸田雅楽。三条家家士。慶応3年8月26日、三条実美の指示により長崎に赴く。30日土佐藩佐々木高行を訪ね、紹介された龍馬と意気投合し、ともに京都へ。10月16日、大政奉還後の職制案というものを龍馬に示す。この職制案が龍馬から後藤象二郎の手を経て岩倉具視に渡り、王政復古後の職制の原型となったといわれている。明治23年貴族院議員、同29年男爵。享年77歳。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●大江卓の墓    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山   
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 墓の位置は、1種イ13号24側。
 土佐藩士。慶応3年9月、砲術修行で長崎遊学中、海援隊の石田英吉・中島作太郎と親交を結ぶ。近江屋事件後の23日、陸援隊に加入。まもなく龍馬殺害を示唆したという噂のある紀州藩の三浦休太郎襲撃計画に参画し実行委員の一人となる。12月6日夜、三浦を一力亭の帰途に襲撃するが人違いで失敗。翌7日三浦の宿舎である油小路花町下ル天満屋に斬り込む。
 明治3年から部落解放運動を志す。同5年神奈川県令。西南戦争で政府転覆を企てたため投獄。出獄後、政党運動に身を投じ、23年衆議院議員となる。享年57歳。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●沢辺琢磨    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山   
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 墓の位置は、1種ロ20号11側。
 山本数馬。土佐藩士。武市半平太の妻富子は従姉妹。琢磨の父と龍馬の父は従姉妹。
 江戸の桃井春蔵の道場で修行中の安政4年8月4日、田那村作八と外出したさいに田那村が酒に酔って通行人にからみ、商人の佐州屋金八が投げ出していった風呂敷包みにあった二個の時計を道具屋に売りとがしたことから、事件が明るみに出る。藩邸で問題となり、武市半平太の尋問に罪を認めたため、武市と龍馬が佐収屋を訪れて事件を落着させた。山本はとりあえず謹慎処分と決定されるが、不名誉な事件のために切腹させられる恐れもあり、武市と龍馬の計らいで逃亡し蝦夷に渡る。
 同地で神明神宮司沢辺幸司の女婿となり、沢辺姓と神職を継ぐ。明治になってロシア人修道司祭ニコライより先例を受けてキリスト教徒となるが、禁教下のため迫害を受け明治3年には仙台で入獄し、放免後もキリスト者としての道を歩んだ。享年80歳。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●佐々木高行の墓    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山   
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 墓の位置は、1種イ21号8側。
 土佐藩士、大監察。家禄は五十八石と少ないが、土佐藩では数少ない上士の尊攘派として活躍した。郡奉行・普請奉行などを歴任し、慶応2(1866)年、大宰府に三条実美らを訪問して以後、時勢を見通して倒幕派に傾いた。慶応3(1867)年、大監察に昇って上洛し、大政奉還の周旋のため、龍馬らとたびたび協議した。同年7月、英国水平殺害事件がおこり、その嫌疑が海援隊、土佐藩にかかると、その解決のため龍馬と力を合わせた。龍馬暗殺の報に接した時「今日は天下一人の仇討をする場合ではない。大仇討の策略が肝要だ。之が却って坂本の本意でもあろう」と激昂する同志の慰撫に努めた。晩年は明治天皇の側近として仕えた。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)