●大久保利通の墓    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山  > 青山霊園北東   
東京都港区南青山2 

 墓の位置は、1種イ2号15〜17側。
 西郷隆盛、木戸孝允とともに明治維新の三傑と称される。しかし、他の二人とは異質で、冷徹なほど現実的であり、情と義の世界に生きる西郷とはあまりにも対照的なリアリストぶりゆえに、日本人の間ではあまり人気がない。久光の藩改革では、つねに優秀な策士として薩摩藩を動かした。慶応3年、岩倉具視と結んで倒幕の密勅を得る。
 維新後の新政府では、より実際的な政治家として数々の新体制作りに参加した。参与、内閣事務掛、総務極顧問などを歴任する一方で、木戸孝允らとともに尽力して、まず版籍奉還を推進した。さらに廃藩置県によって、政府が全国を統治下に置くという政治の基本的構図を完成させた。一方、幕末からの重要課題であった条約改正にも取り組み、岩倉使節団を海外に派遣するなどしたが、改正は実現しなかった。その後、参議と初代内務卿を兼任したが、征韓論をめぐって幼少時代からともに時代を生きてきた西郷隆盛と対立、明治10年の西南戦争は、私情を交えぬ彼らしいやり方でこれを武力鎮圧した。しかし、西郷のシンパたちの激情を招き、東京紀尾井坂で暗殺された。47歳であった。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●後藤象二郎の墓    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山  > 青山霊園北東   
東京都港区南青山2 

 墓の位置は、1種イ13号24側。
 早くから父をなくし、姉の夫である吉田東洋に教育された。東洋が暗殺されてからしばらく不遇の時期が続いたので、江戸に出て航海術などを学んで時期を待っていた。山内容堂によって尊攘派が追放されると土佐に帰り、大監察として容堂の右腕となり、武市瑞山以下土佐勤王党の弾圧に乗り出した。
 しかし時代は変わり、長州は藩論を尊攘から討幕へ進め、薩摩も公武合体は時代遅れと討幕へと向かい、薩長同盟が成立した。土佐でも討幕には踏み切れないものの、時勢の転換に何とか対応しなければならないとの考えが強まった。慶応3年、龍馬と会談して、藩論の転換を決意した。象二郎は龍馬・中岡慎太郎の脱藩を赦し、それぞれ海援隊・陸援隊の指揮を委ねて藩への協力を求めた。その後、龍馬と土佐藩船水練(夕顔)で京都にのぼったが、この船中で龍馬が記述したのが大政奉還のための「船中八策」であった。土佐に帰ると象二郎はただちに登庁して容堂に会い、大政奉還の腹案を説明した。容堂も長州・薩摩を出し抜き土佐が藩が一気に政治の表舞台にあがれるこのアイディアを藩論として決定した。
 明治新政府では参与、参議に任じられたが、征韓論に敗れて野に下り、民選議員設立の運動をした。後に板垣退助らと共に自由党を結成、通信大臣・農商大臣とふたたび政府の要職に就いた。病死したとき、明治天皇は後藤に哀悼の勅語を賜った。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●尾崎三良    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山  > 青山霊園北東   
東京都港区南青山2 

 墓の位置は、1種イ4号22側。
 戸田雅楽。三条家家士。慶応3年8月26日、三条実美の指示により長崎に赴く。30日土佐藩佐々木高行を訪ね、紹介された龍馬と意気投合し、ともに京都へ。10月16日、大政奉還後の職制案というものを龍馬に示す。この職制案が龍馬から後藤象二郎の手を経て岩倉具視に渡り、王政復古後の職制の原型となったといわれている。明治23年貴族院議員、同29年男爵。享年77歳。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●大江卓の墓    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山  > 青山霊園北東   
東京都港区南青山2 

 墓の位置は、1種イ13号24側。
 土佐藩士。慶応3年9月、砲術修行で長崎遊学中、海援隊の石田英吉・中島作太郎と親交を結ぶ。近江屋事件後の23日、陸援隊に加入。まもなく龍馬殺害を示唆したという噂のある紀州藩の三浦休太郎襲撃計画に参画し実行委員の一人となる。12月6日夜、三浦を一力亭の帰途に襲撃するが人違いで失敗。翌7日三浦の宿舎である油小路花町下ル天満屋に斬り込む。
 明治3年から部落解放運動を志す。同5年神奈川県令。西南戦争で政府転覆を企てたため投獄。出獄後、政党運動に身を投じ、23年衆議院議員となる。享年57歳。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)


 ●沢辺琢磨    2011/1/10 up  TOP  > 東京  > 青山  > 青山霊園北東   
東京都港区南青山2 

 墓の位置は、1種ロ20号11側。
 山本数馬。土佐藩士。武市半平太の妻富子は従姉妹。琢磨の父と龍馬の父は従姉妹。
 江戸の桃井春蔵の道場で修行中の安政4年8月4日、田那村作八と外出したさいに田那村が酒に酔って通行人にからみ、商人の佐州屋金八が投げ出していった風呂敷包みにあった二個の時計を道具屋に売りとがしたことから、事件が明るみに出る。藩邸で問題となり、武市半平太の尋問に罪を認めたため、武市と龍馬が佐収屋を訪れて事件を落着させた。山本はとりあえず謹慎処分と決定されるが、不名誉な事件のために切腹させられる恐れもあり、武市と龍馬の計らいで逃亡し蝦夷に渡る。
 同地で神明神宮司沢辺幸司の女婿となり、沢辺姓と神職を継ぐ。明治になってロシア人修道司祭ニコライより先例を受けてキリスト教徒となるが、禁教下のため迫害を受け明治3年には仙台で入獄し、放免後もキリスト者としての道を歩んだ。享年80歳。

参考文献: 東京「幕末」読み歩き〜志士の足跡を訪ねる(三澤敏博・心交社)
坂本龍馬大事典(新人物往来社)