◆    ヤ行    ◆

山内容堂
山内容堂   やまのうちようどう1827-1872 〔土佐〕 2000/1/5 up
   山内家の分家の出身で、母は下士庶民層のお扶持大工の娘だった。嘉永元(1848)年、十四代藩主豊惇の急死にともない、幕府の特別なはからいによって十五代藩主の座につくことができた。そのため、伝統の幕府への忠誠心は、彼においていっそう厚いものとなった。度量が広く豪快で、文武に多彩な才能を有し、ことに大酒家であったことは名高い。嘉永6(1853)年より吉田東洋を抜粋して藩政改革を実施した。安政年間(1854-1860)、中央政局に乗り出し、将軍継嗣問題に参画して一橋派の有力構成員となった。しかし、南紀派との抗争に敗れた結果、隠居謹慎の処分を受け、品川鮫洲の別邸に幽居閉門の日々を送らなければならなくなる。その間に、国許では東洋が勤王党に暗殺された。謹慎処分が解け、文久3(1863)年1月、京都に向かう途中、下田港におりて勝海舟より龍馬らの脱藩赦免を訴えられ、これを聞き入れた。同年4月、京都をへて国許に戻り、勤王党の弾圧を開始した。京都の八・一八政変を機に勤王党の一斉検挙に踏み切り、盟主武市瑞山以下を容赦なく死罪に処した。公武合体路線が手詰まりになった慶応3(1867)年7月、後藤象次郎から龍馬の大政奉還論を説かれ、その推進を命じた。二ヶ月後、高知に着た龍馬を引見し、大儀料五十両を授けたとも言われている。だが、大政奉還は実現したものの、王政復古のクーデターを阻止できず、佐幕方針を完遂できなかったため、維新後は官途を避け「土佐の狂太夫」と呼ばれるような生活を送った。


山本数馬
山本数馬   やまもとかずま1836-1913 〔土佐〕 2011/1/9 up
    沢辺琢磨。土佐藩士。武市半平太の妻富子は従姉妹。琢磨の父と龍馬の父は従姉妹。
 江戸の桃井春蔵の道場で修行中の安政4年8月4日、田那村作八と外出したさいに田那村が酒に酔って通行人にからみ、商人の佐州屋金八が投げ出していった風呂敷包みにあった二個の時計を道具屋に売りとがしたことから、事件が明るみに出る。藩邸で問題となり、武市半平太の尋問に罪を認めたため、武市と龍馬が佐収屋を訪れて事件を落着させた。山本はとりあえず謹慎処分と決定されるが、不名誉な事件のために切腹させられる恐れもあり、武市と龍馬の計らいで逃亡し蝦夷に渡る。
 同地で神明神宮司沢辺幸司の女婿となり、沢辺姓と神職を継ぐ。明治になってロシア人修道司祭ニコライより先例を受けてキリスト教徒となるが、禁教下のため迫害を受け明治3年には仙台で入獄し、放免後もキリスト者としての道を歩んだ。享年80歳。


由利公正
由利公正   ゆりこうせい1829-1909 〔福井〕 2019/9/19 up
   三岡八郎のこと。明治3(1870)年、旧姓に復して由利と称した。嘉永4(1851)年、熊本藩士横井小楠の北陸遊歴の際、福井城下で出会ってより、横井に傾倒し生涯の師とした。横井の著書『経世安民』を学んで藩の財政改革に尽力する。横井の指導により、長崎の地で豪商小曾根乾堂の協力を受けて、越前の物産を対外貿易に載せ、藩庫を飛躍的に充実させた領民収奪的な藩専売制を排し、民富論的立場から重商殖産を実現し、由利は幕末の財政家として聞こえた。龍馬は文久3(1862)年5月、勝海舟の使者として、神戸塾設立の資金五千両借用のため越前福井に赴き、役目を果たした。『由利公正伝』にはこの際のことが「或日、親戚の招宴でおそく帰った処、夜半に大声で戸を叩くものがある。出てみると、小楠が坂本と一緒に小船に掉して来た。そこで三人が炉を抱いて飲み始めたが、坂本が愉快極って『君が為め捨つる命は惜しまねど心にかヽる国の行末』といふ歌を謡ったが、其の声調が頗る妙であった」と記されている。龍馬は慶応3(1867)年10月28日福井に着き、11月1日松平春嶽に後藤象二郎の上京要請を伝えている。2日、由利と龍馬の両人は宿のこたつに入り、朝の八時から夜の十時まで、政権返上次第やら、各分財源経綸やらを語り合った。その際、由利は龍馬がくれた写真を懐中して帰った。由利は龍馬の推挙により、京都に出て新政府の徴士参与に起用された。金札(太政官札)の発行などをして危機に瀕した新政府財源を救った。明治元年3月龍馬の「船中八策」を踏襲し、福岡孝弟と「五箇条の御誓文」の原案を製作した。


横井小楠
横井小楠   よこいようなん1809-1869 〔福井〕 2019/9/20 up
   隈本藩士の次男で、秀才として知られた横井小楠は、29歳で藩校「時習館」の塾長になり、31歳のとき江戸に出てさらに学んだ。藩に変えると、小楠堂という塾を開いた。評判の高くなった小楠は、越前藩主・松平春嶽に招かれ、藩校「明道館」の教師になった。さらに越前藩の政治改革を頼まれ、指導した。小楠は開国・貿易をおこない、産業を発展させることで国を豊かにすることが重要だと考えていた。1862年、春嶽が政治総裁職に任命されると、小楠も公武合体を実現させるため、春嶽の仕事を手伝った。広い視野を持った小楠の考え方に、坂本龍馬をはじめ多くの志士が影響を受けた。小楠は新政府にも招かれて重要な役職に就いたが、1869年、京都で攘夷派の志士に暗殺された。


吉井幸輔
吉井幸輔   よしいこうすけ1827-1891 〔薩摩〕 2011/1/9 up
    吉井友実。薩摩藩士。慶応2年1月、寺田屋での遭難で、事件を聞いた西郷隆盛が伏見に駆けつけようとするのを制して馬で急行し、龍馬とおりょうが京都に向かう際には一小隊の警護をつけた。3月の龍馬とお竜の鹿児島行にも同行して、屋敷に滞在させ、湯治旅行にも同行している。近江屋事件では田中光顕とともに現場に駆けつけた。維新後は元老院議官などをつとめ、天皇の側近に仕えた。享年65歳。


吉田松陰
吉田松陰   よしだしょういん1830-1859 〔長州〕 2019/9/19 up
   長州藩の藩士の子に生まれた松陰は、6歳で親類の吉田家の養子になった。叔父・玉木文之進が開いた松下村塾で兵学を学ぶと、すぐに理解して覚え、9歳で藩の学校の「明倫館」で兵学を教えるまでになった。松陰が13歳の時、強国だと思っていた清(中国)がイギリスと戦争して大敗し、西洋の強さを知った。この頃、尊王攘夷論が長州藩にも広まっていたが、松陰は「そもそも日本が強くなければ攘夷は行えない」と考えた。そこで松陰は江戸を出て、佐久間象山の塾に入門し、西洋の兵学などを学んだ。22歳の時、藩を勝手に抜け出して宮部鼎蔵と東北地方を旅して見分を広めた。1854年にはペリーの黒船に乗り込んで、アメリカに行こうとしたが失敗した。幕府の役人につかまった松陰は長州藩に送り返された。


吉田東洋
吉田東洋   よしだとうよう1816-1862 〔土佐〕 2000/1/5 up
   高知城下帯屋町で土佐藩馬廻吉田光四郎光清の四男に生まれる。吉田の先祖は長宗我部家重臣、さらにその遠祖は藤原秀郷で、同じ首藤山内氏の縁から上士徒歩役に取りたてられたという。山内容堂に見出され仕置役人に起用されるが、安政元(1854)年在府中、山内家親戚を酒席で殴打する事件を起こし免職。一時、土佐国吾川郡長浜村に閉居し、開塾。後藤象二郎福岡孝弟岩崎弥太郎らを教えた。のち安政4(1857)年、仕置役に再起用され、容堂を助け藩政改革をおこなう。文武館を建設し、洋学の知識を広め、物品売買に税を賦課し、幕末の藩庫を安定させてた。また『海南政典』を編纂し、藩政の基準を示した。幕末の土佐藩論は、山内容堂の公武合体策を堅持し、土佐勤王党の主張する尊皇攘夷を書生論として一蹴したので、武市瑞山ら土佐勤王党と対立した。龍馬脱藩の十余日後の文久2(1862)年4月8日、『日本外史』本能寺の変を藩主豊範に講義して下条の際、武市のさしむけた勤王党三士により要撃された。大石流剣法を心得る東洋は抜き合わせたが討たれた終わった。享年47歳。


吉村寅太郎
吉村寅太郎   よりむらとらたろう1837-1863 〔土佐〕 2000/1/5 up
   土佐高岡郡北川村の庄屋の家に生まれ、各地の庄屋を歴任して農村復興の治績をあげた。武市瑞山の門に出入りして土佐勤王党の血判に加わり、文久2(1862)年、久坂玄瑞から伏見挙兵計画の情報を得て脱藩した。この脱藩は龍馬より二十日ほど早く、土佐勤王党の第一号とされる。その後、主として長州藩尊攘派と交際し、いったんは土佐に送還されたが、文久3(1863)年、公卿中山忠光を擁して天誅組を結成。総裁に任じて倒幕の兵をあげ、大和五条の代官所を襲った。が、諸藩兵に攻められて大和鷲家口に戦死した。