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一橋慶喜
一橋慶喜   ひとつばしよしのぶ1837-1913 〔一橋〕 2000/1/5 up
   徳川慶喜


土方歳三
土方歳三   ひじかたとしぞうく1835-1869 〔新撰組〕 2000/1/5 up
   日野の家伝薬を製造する名主に生まれる。幼くして両親をなくし、義兄の佐藤彦五郎が自宅に持っていた天然理心流の道場で出稽古を受けていた。この時、近藤勇と出会う。四代目を継承した勇にしごかれ、歳三も試衛館師範代となるが、年下の塾頭沖田総司にはかなわなかった。清河八郎に応じ、勇ら試衛館仲間と浪士隊に参加したが、上洛するなり尊攘を叫ぶ清河と決別、水戸脱藩浪士芹沢鴨、新見錦らと京都に残り、会津藩預かりの新撰組を結成する。やがて歳三たち近藤派は、新撰組の評判を落としていた芹沢派を次々に粛清し、近藤局長のもと歳三は副長に収まる。池田屋騒動では別働隊を率いて、先に乗り込んだ近藤達を救援した。鳥羽伏見の戦い後、下総流山で官軍に包囲され、近藤勇が降伏。歳三は再起をと会津に逃げて勝海舟に近藤救出を依頼するが聞き入れられなかった。以後、激戦地を転戦し、榎本武揚と蝦夷箱館へ渡り、箱館戦争で戦死する。


福岡孝弟
福岡孝弟   ふくおかたかちか1835-1919 〔土佐〕 2000/1/5 up
   生家は土佐藩の家老の支族であり、安政元(1854)年、吉田東洋の門下生となった。安政5(1858)年、東洋が藩政の中枢に復帰すると、後藤象二郎らとともに登用を受け、「新おこぜ組」と呼ばれる若手革新グループを形成した。文久2(1862)年、東洋が土佐勤王党に暗殺されたため、一時沈滞したが、文久3(1863)年、藩情の一変により回復し、後藤と並んで藩政首脳部に列した。慶応2(1866)年11月、上洛して中岡慎太郎と会し、また、西郷隆盛ら薩摩藩重臣と親しく語り合った。その結果、時勢に対する認識をあらため、龍馬や中岡の脱藩罪赦免を山内容堂を説いて、翌3年2月に実現にこぎつけた。ついで同年3月、長崎に出張し、龍馬・中岡の積極的起用を後藤象二郎と論じ、海援隊・陸援隊を藩の外郭組織として発足させるにいたった。その後、龍馬の説く大政奉還論に賛成して、種々奔走し、後藤につぐ信頼を寄せられた。維新後は新政府に出仕し、参与・参議などを歴任して、管制の整備につとめた。「五ヶ条の御誓文」の草案を由利公正と製作した。


平井加尾
平井加尾   ひらいかお1838-1909 〔土佐〕 2010/9/14 up
   平井収二郎の妹。安政6年12月、山内容堂の妹の友姫が三条公睦に嫁いださいに、御付役として上洛し、公睦死後も文久2年まで三条家に仕え帰国した。
龍馬の初恋の人と目されているが、龍馬が文久3年乙女にあてた手紙では、千葉佐那と比較して、顔形は加尾が少し劣ると評しているものの、佐那が「今の平井」と同様だとしているところから、一時の恋愛対象であったことは間違いない。
 慶応2年に西山志澄と結婚し娘をもうけ、のちに娘に養子を迎えて平井家を継がせている。享年72歳。