◆    ナ行    ◆

中岡慎太郎
中岡慎太郎   なかおかしんたろう1838-1867 〔土佐〕 2000/1/5 up
   龍馬と協力して薩長同盟を成立させたが、龍馬のように平和倒幕路線はとらず、武力討幕を最終目標とした。性格的にも、龍馬の陽性・柔軟に対し、重厚・沈着で一途の傾きがあった。生家は十四カ村を差配して苗字帯刀を許された格式高い大庄屋であり、経済的にも恵まれていた。十代のなかばから儒学を間崎哲馬に、剣を武市瑞山に学び、両者の影響を受けて尊攘思想に染まっていった。文久元(1861)年、土佐勤王党が結成されると、ただちに加盟した。文久3(1864)年、土佐勤王党が藩庁の弾圧を受け、自分にも捕縛命令が出たのを機に脱藩し、長州へはしった。慶応元(1865)年潤5月には、西郷隆盛に薩長同盟の趣旨を説き、桂小五郎が待つ長州にて交渉のテーブルにつかせるべく鹿児島に行った。その帰途、同じ目的で長州にいた龍馬と出会い、以後二人は手を取り合って薩長同盟のため奔走する。慶応3(1867)年4月、慎太郎は龍馬とともに脱藩の罪を許され、陸援隊隊長に任命された。ついで、5月に京都で板垣退助と会って土佐藩を武力討幕派へ参加させる工作を行ない、板垣を西郷に紹介し、薩土倒幕密約を結んだ。11月15日夜九時過ぎ、近江屋の二階にて同席の龍馬と刺客に襲撃され闘死 。


中浜万次郎
中浜万次郎   なかはままんじろう1827-1898 〔土佐〕 2010/9/13 up
   ジョン万次郎の事。
土佐国幡多郡中ノ浜村の出身。漁民。土佐藩士。幕臣。
天保12年に乗っていた漁船が遭難し、以後12年間、無人島はアメリカ本土での生活を余儀なくされた。嘉永5年に土佐に帰国後は貴重な漂流体験を語り伝える。同年、藩士として取りたれたが、翌6年には幕府に召聘され、軍艦操練所教授などをつとめた。また万延元年には咸臨丸に通訳として乗り組み渡米する。その後は元治元年に薩摩藩の開成館に招かれて教授を務めた。維新後の明治2年、新政府に出仕して開成学校の教授となるが、晩年は官を辞して不遇の生活を送った。
龍馬との接触は資料の上では確認できない。


長岡謙吉
長岡謙吉   ながおかけんきち1834-1872 〔土佐〕 2001/8/30 up
   父は高知城下浦戸町医今井孝順。今井家はもと香美郡野市村の郷士で、祖父参平は郷士株を他譲して高知城下で医師なり、御用人格に召し出された。謙吉もこれを継いだ。
十二、三歳の頃、同じ町内の河田小龍に『文章軌範』を読みたいと頼んで入門する。安政6(1859)年長崎で西洋医術を学び、シーボルトの子アレキサンーに日本語を教えた。文久元(1861)年土佐藩より役人がやってきて、謙吉が国境用居口間道から脱薄した罪を問われ、高知へ送還される。在獄半年後、城東鹿児村に閑居し、懐山と号した。
慶応元(1865)年頃再び脱藩し、鹿児島から長崎に出る。龍馬の海援隊に参加し、文司となり、学問知識を生かして「海援隊約規」を成文化する。ついで偶発したいろは丸沈没事件の審判を記録した。慶応3(1867)年6月夕顔船上で龍馬が後藤象二郎と討議した「船中八策」の案文を作成。10月の大政奉還建自書についても「草案を起すに至りしは存じ掛もなき事」(宮地美彦『長岡謙吉先生』)と記している。ほかにも海援隊刊行の『閑愁録』は謙吉の仏教振興論であり、『藩論」も謙吉著述が有力視されている。謙吉は龍馬の片腕となり、歴史に残す仕事を果した。明治5年6月東京で病死。


楢崎竜
楢崎竜   ならさきりょう1841-1906 2001/7/7 up
   龍馬の妻。京都柳馬場三条下ルで青蓮院宮家の侍医楢崎将作の長女として生まれたという説と、実父は西陣有職織物匠井筒屋喜代門といい、14〜15歳の頃に楢崎将作の養女となったという説がある。将作は梁川星巌や頼三樹三郎と親交のあった勤王家で、そのため安政の大獄に連座し、文久3(1863)年に獄死したため一家は離散。元治元(1864)年春頃、生活に窮しているところを龍馬と巡りあい、弟妹たちの身柄を寺田屋お登勢や、勝海舟に託す。龍馬はお竜の母お貞が留守居をしていた方広寺で楢崎一家の身の上話を聞き、気の毒に思って、一・二度合ったことのあるお竜を嫁にくれとお貞に言った。その後の元治元年八月一日、金蔵寺の住職智息院が仲人となって本堂で祝言をあげた。
龍馬は慶応元(1865)年9月9日、乙女とおやべ宛てに長文の手紙を書いている。禁門の変が起き、京都は焼かれ弟妹は四散、売られようとした妹を救出するお竜の雄婦ぶりを描き、「右女ハまことにおもしろき女」「私のあよふき時よくすくい候事どもあり」「名はお竜と申、私しニにており候」と知らせ、「乙大姉の名諸国ニあらハれおり候」と乙女を持ちあげて帯や着物をつかわして下さい、とねだっている。慶応2(1868)年1月、薩長同盟成立後に起きた伏見寺田屋事件では、入浴中のお竜は風呂から飛び出して注進し、薩摩屋敷にも急を知らせるなど、龍馬の危機を救う働きしている。同年3月、小松・西郷らの勧めにより、薩摩へ新婚旅行に出発し、霧島温泉や高千穂の峰に遊び、負傷の治療をかねて日本人初の新婚旅行を味わう。その後、お竜はユニオン号に乗って長崎に向かい、小曽根英四郎宅に入って月琴の稽古などに日を過ごす。ついで、慶応3(1867)年2月、龍馬にともなわれて下関に赴き、伊藤助太夫方に止宿することになった。美人で花を生け香をきき茶の湯を致す教養を持ち、気丈な男勝りの京女は、海援隊士らに「姉さん」と呼ばれたが、土佐藩大監詩イ々木高行は日記に、「有名ナル美人ノ事ナレ共、賢婦人ヤ否ヤハ知ラズ、善悪共ニ為シ兼ネル様ニ思ヒタリ」と表している。龍馬がお竜にあてた手紙が一通だけ残っている。いろは丸衝突沈没事件の交渉解決を報じ、「其後は定めてきづかい察入候」とはじまり、長崎へ帰る途中は、「其後ハかならずかならず下関ニ鳥渡なりともかへり申候」と、お竜への気遣いと愛情が示されている。龍馬の没後しばらくは、三吉慎蔵の世話になり、明治元年、龍馬の高知の実家に迎えられた。だた、一年ほどで京都に戻り、龍馬の墓のかたわらに庵室を結んだ。お竜が土佐を去るとき、たくさんあった龍馬からの手紙は、この手紙は人に見せたくないからと、すっかり焼いてしまったようだ。やがて西郷隆盛らを頼って東京に出、明治8年に旧知の大道商人西村松兵衛と再婚し、西村つると名乗り、晩年は横須賀三浦郡豊島村の観念寺裏長屋で夫とくらし、貧窮の中で、明治39(1906)年に没している。享年66歳。墓は神奈川県横須賀市大津3丁目信楽寺(しんぎょうじ)門前に「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。


野村辰太郎
野村辰太郎   のむらたつたろう1845-1903 〔土佐〕 2011/1/8 up
    野村維章。海援隊士。慶応2年6月、土佐を脱藩して亀山社中に加入し、10月には社中が購入した大極丸には白峰駿馬とともに船長として乗り組んだ。龍馬の死後の慶応4年1月、海援隊による長崎奉行所の占拠にも参加するが、その際に佐熊藩士を誤殺した沢村惣之丞の切腹に立ち会った。海援隊解散後は、長崎振遠隊の幹部として戊辰戦争に従軍、奥羽方面で戦功を上げる。維新後は茨城県令などをつとめたのち司法官に転じ、控訴院検事長まで進んだ。享年60歳。男爵を授けられる。