◆    サ行    ◆

西郷隆盛
西郷隆盛   さいごうたかもり1827-1877 〔薩摩〕 2010/5/22 up
   薩摩の下級藩士として生まれたが、藩主島津斉彬に取りたてられ、側近として活躍した。斉彬の命により将軍継承問題に関与し一橋慶喜擁立に動くが、大老井伊直弼の安政の大獄により幕府の弾圧を受け大島に配流された。3年後にゆるされ帰国したが、島津久光(斉彬の異母弟・斉彬の次の藩主忠義の父)とそりが合わず、徳之島、さらに南の沖永良部島まで流される。2年後にゆるされ軍賦役となり、公武合体を推し進める薩摩藩を代表して活躍する。禁門の変・第一次長州征伐では幕府方として長州と戦った。この頃勝海舟から龍馬を紹介され、公武合体から倒幕へと考えを変えるきっかけとなる。第二次長州征伐の頃、龍馬の斡旋で長州藩の木戸孝允と薩長連合の盟約を結んだ。以後、討幕の方針をとり、維新軍の総帥として鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、函館戦争を戦った。官軍による江戸総攻撃の前には勝海舟と会談し、江戸城の無血開城を実現させた。維新後、政府に征韓論を潰された西郷は鹿児島へと帰郷し私学校を設立する。このころ各地で不平士族の乱が続発したが、西郷はその動きに呼応しなかった。しかし、大久保利通は旧薩摩藩士の暴発を恐れ、密偵を鹿児島に送り私学校生徒らと西郷の離間を謀ったがこれがきっかけとなり西南戦争が勃発。西郷軍は熊本城を陥落させることが出来ず、明治10年(1877)城山にて自決。


坂本伊與
坂本伊與   さかもといよ1831-1879 〔土佐〕 2001/9/29 up
   龍馬の継母。八平の後妻。北代平助の長女。長ずるにおよび美人の誉れが高くなり、山内容堂公の住む下屋敷に祐筆として仕え、奥女中に薙刀を指南していた。聡明で勝気な反面、慈悲心が強く、義理固く、母思いであった。龍馬を躾のために、食事もおあずけで板の間に端座させたところを人に見られ、いじめていると誤解された。龍馬の伊與あての手紙が一通も残っていないが、これは北代家が維新後に4〜5回引っ越しているため、亡失したものと考えられる。


坂本乙女
坂本乙女   さかもとおとめ1831-1879 〔土佐〕 2000/1/5 up
   龍馬の三歳年上の末姉。体躯巨大で身長五尺八寸、体重三十貫に近く「坂本のお仁王様」と渾名されたという。龍馬が送った乙女宛の手紙が20通近く残されている。剣術は切紙の腕前で、馬、弓術、水練も出来、経書、和歌、絵画も学び、琴、三味線、舞踊、謡曲、浄瑠璃、琵琶歌、一弦琴から義丈夫の音曲が出来た学芸・スポーツ万能の女性で、ただし料理・裁縫が苦手であった。母幸亡き後、龍馬の成長に多大の影響をあたえる。26、7歳のころ本丁筋二丁目の藩医岡上樹庵に嫁し一男一女を生んだが、離婚して坂本家に帰っている。


坂本栄
坂本栄   さかもとえい?-1844・47 〔土佐〕 2001/9/29 up
   龍馬の次姉。柴田作右衛門に嫁ぐ。龍馬の脱藩に際して、家宝の銘刀を渡した責めを負って自刃したと伝えられていることが多いが、昭和63年に「柴田作右衛門妻 坂本八平女」という碑銘墓が発見され、没年が弘化年間(1844〜1847年)であることが確認されたので、栄は龍馬が12・3歳の時に亡くなったらしい。


坂本権平
坂本権平   さかもとごんべい1814-1871 〔土佐〕 2000/1/5 up
   龍馬より22歳年上の兄。大蔵、佐吉とも名のる。諱は直方。安政3年2月、家督、領地、俸禄を相続して、四代目当主となる。温厚実直な人柄で、一絃琴をよく演奏する。京都藩邸臨時用役、御廟所番、御築山番を務め、安政の頃土佐藩砲術師範徳弘董斎に就き、砲術奥義を授かっている。


坂本幸
坂本幸   さかもとさち1796-1846 〔土佐〕 2001/9/29 up
   龍馬の実母。土佐藩士坂本八蔵直澄の一人娘。山本覚右衛門の次男八平直足を養子に迎え、龍馬ら二男三女をもうける。猫が好きで、龍馬懐妊中も猫を抱いていたので、龍馬の背に怪毛がはえたという伝説がある。また同じく龍馬懐妊中に風雲奔馬が体内にとびこんだ夢を見たので、龍馬と名付けたともいう伝説もある。弘化3(1846)年6月10日、夫よりもはやく49歳で没。


坂本千鶴
坂本千鶴   さかもとちず1817-1861 〔土佐〕 2001/9/29 up
   龍馬の長姉。安芸郡安田村郷士高松順蔵に嫁して、長男高松太郎(海援隊士、坂本直)、次男南海男(自由民権論者、北海道開拓キリスト教伝導家、坂本直寛)を生む。いずれも後に郷士坂本家跡を継いでいる。


坂本八平
坂本八平   さかもとはちへい1797-1855 〔土佐〕 2001/9/29 up
   龍馬の父。諱は直足(なおたり)。土佐郡潮江村(高知市潮江)の白札(郷士とも)山本家より、郷士坂本家の一人娘幸に婿養子としてむかえられた。弓槍は免許皆伝で書や歌もたしなむ。龍馬が嘉永6年3月に江戸修行に赴く際与えた「修行中心得大意」には、忠孝を忘れず修行第一、諸道具に銀銭を費やさない、色情に心を移し国家の大事を忘れない、という三箇条が記されている。


坂本春猪
坂本春猪   さかもとはるい1843-? 〔土佐〕 2001/9/29 up
   龍馬の姪。坂本権平の娘。龍馬とは叔父と姪の間柄だったが、歳が8つしか違わないため、龍馬に妹のように可愛がられた。龍馬から春猪宛の手紙は2通確認されている。文久のころ、家老山内下総家来の鎌田実清次男の清次郎を婿養子に迎えた。元治元年に長女鶴井を、慶応元年に次女兎美(富)生む。清次郎は慶応3年脱藩して龍馬を頼り、後年帰国して坂本家を出、名を三好賜と改めた。春猪も三好家に入り美登と改める。夫の没後、札幌で牧師をしていた坂本直寛を頼るも、直寛の後妻と合わず高知に帰る


坂本竜
坂本竜   さかもとりょう1841-1906 2001/7/7 up
   龍馬の妻。楢崎竜。


佐々木高行
佐々木高行   ささきたかゆき1830-1910 〔土佐〕 2000/1/5 up
   家禄は五十八石と少ないが、土佐藩では数少ない上士の尊攘派として活躍した。郡奉行・普請奉行などを歴任し、慶応2(1866)年、大宰府に三条実美らを訪問して以後、時勢を見通して倒幕派に傾いた。慶応3(1867)年、大監察に昇って上洛し、大政奉還の周旋のため、龍馬らとたびたび協議した。同年7月、英国水平殺害事件がおこり、その嫌疑が海援隊、土佐藩にかかると、その解決のため龍馬と力を合わせた。龍馬暗殺の報に接した時「今日は天下一人の仇討をする場合ではない。大仇討の策略が肝要だ。之が却って坂本の本意でもあろう」と激昂する同志の慰撫に努めた。晩年は明治天皇の側近として仕えた。


菅野覚兵衛
菅野覚兵衛   すがのかくべい1842-1893 〔土佐〕 2001/8/24 up
   千屋寅之助のこと。土佐国安芸郡和喰村出生。同地庄屋民五郎の三男。土佐勤王党千屋菊次郎、金策は従兄弟。剣を小川為十郎、書を川村柳意に学び、土佐勤王党に加盟。中岡慎太郎らといわゆる五十人組に加わり上京、文久2年、旧知の高松太郎の紹介で、望月亀弥太とともに龍馬を知った。龍馬の勧めで勝塾に入り、以後、行動をともにする。第二次長征戦では、ユニオン号船将となり、長州軍の士気を高めた。イカルス号事件では水夫殺害嫌疑に対し、長崎奉行所で毅然とした態度を貫く。慶応4(1868)年3月、楢崎将作の三女、起美と長崎で結婚。全ては姉のお竜のてはずだったが、龍馬の意向でもあったようだ。戊辰の役には長崎振遠隊の幹部として奥羽地方の内戦救援に参加。明治2年には、白峰駿馬といろは丸沈没の賠償金の配分金を持って米国ニュージャージー州のラトガース大学に留学。明治7年に帰国して海軍に入った。明治10年西南の役には、鹿児島磯の造船所の責任者として、武器庫にあった弾薬を水に浸して機敏な処置をしたが、明治17年海軍を辞職、福島県安積郡富久村に入植して開拓に取り組む。


沢村惣之丞
沢村惣之丞   さわむらそうのじょう1843-1868 〔土佐〕 2000/1/5 up
   土佐郡潮江村の地下浪人の家に生まれ、間崎哲馬の塾に入門。文久元(1861)年、土佐勤王党に加盟したが、翌年3月に龍馬とともに脱藩。その後、長州に赴いて久坂玄瑞ら同藩尊攘派と交遊し、文久3(1863)年、京都に滞在中に龍馬の紹介で勝海舟の門下生となった。同年4月、江戸に出て大久保一翁と面会し、龍馬と並ぶ具眼の士と評価を与えられた。以後も龍馬と行動をともにし、勝塾に入って、英語・航海術を研修。ついで海援隊に加わり、龍馬の右腕となって隊務に専念した。慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見に戦報が届き、長崎奉行河津祐邦らが江戸へ逃走すると、龍馬亡きあと海援隊を掌握していた佐々木高行に従い、奉行所を占拠し市中の治安維持にあたった。だが、その折に薩摩藩士を誤殺し、責を負って自刃する。


三条実美
三条実美   さんじょうさねとみ1837-1891 〔公家〕 2000/1/5 up
   右大臣三条実万(さねつむ)の四男。母は土佐藩山内豊策(とよかず)三女紀子。御所石薬師門近くの梨木町に誕生。6歳まで洛北の豪農楠六左衛門のもとで養育され、勤王家富田織部により教育を受けた。嘉永7(1854)年2月、兄公睦の死により実万の嗣子となる。文久2(1862)年8月、岩倉具視ら「四奸臣」弾劾上書を提出した。10月左近衛権中将に叙せられ攘夷督促の勅使となり、姉小路公知を副使に、土佐藩主山内豊範や武市瑞山たちに護られて江戸へ下った。12月議奏、国事掛となり将軍家茂の誓書を携えて帰京。尊攘派勢力の頂点となったが、翌文久3(1863)年8月18日会津薩摩が政変を起こし、参朝禁止処分を受ける。三条ら七卿は都落ちとなり、長州へ下った。西郷隆盛らによって征長軍解兵を条件として、長府功山寺より太宰府延義王院へ移されたのは慶応元(1865)年正月。三条は幕末までここで滞留することを余儀なくされた。龍馬が九州から北上し、延義王院を訪ねたのはその年の5月で、同席した東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は「偉人なり奇説家なり」と龍馬を評している。中岡慎太郎が京都に幽閉中の岩倉具視のもとへ三条の親書「予西竄の後百事不如意、卿(岩倉)、宜しく中興之業を翼賛すべシ」を携えたのは、慶応3(1867)年3月であった。公卿のトップの和解により王政復古の素地が作られた。維新政府では、議定、副総裁、右大臣となる。明治4(1871)年廃藩置県のあと太政大臣に任ぜられ、征韓論をめぐる閣議対立の処置で苦悩する。三条家は摂家に次ぐ清華の一つで笛を家業とし、管紘、香道、和漢の学に優れ、歌集に「西瀕遊草」などがある。


島津久光
島津久光   しまずひさみつ1817-1887 〔薩摩〕 2000/1/5 up
   薩摩藩国父。大政奉還が実現した翌日、龍馬が起案した「新官制擬定所」に山内容堂松平慶永らと並びその名があげられている。薩摩藩主島津斉興の第三子で、生母は斉興の側室お由良。兄島津斉彬の遺言によって藩主となった我が子忠義を後見し、「国父」と呼ばれて藩政の実験を握った。兄斉彬のやり方を踏して、中央政権進出を志向し、文久2(1862)年に挙兵上京する。伏見寺田屋に集合した尊攘派を武力弾圧して公武合体路線の旗幟を鮮明にするとともに、朝廷から幕政改革命令を引き出すことに成功した。同年、一橋慶喜が将軍後見に、松平慶永政治総裁職に就任した一連の幕政改革は、上の勅旨を奉じて江戸に赴いた久光の働きによるとこらが大きい。だが、その帰途、家臣がいわゆる生麦事件をおこし、久光の意図とは逆に国内の攘夷熱を煽り立てることになった。ついで、生麦事件にたいするイギリスの報復として、薩英戦争が生じ、その過程で西郷隆盛大久保利通らの倒幕派が成長し、藩政に対する久光の影響力はしだいに弱体化した。慶応3(1867)年5月、長州処分などに関する四侯会議が狂とで開かれ、それが幕末政局における久光の最後の活躍の場となった。だた、四侯会議は失敗に帰し、それを境に武力倒幕が勢いを増した。維新後は政府の開明政策に反対し、明治8年、官を辞して正解から引退した。


ジョン万次郎
ジョン万次郎   じょんまんじろう1827-1898 〔土佐〕 2010/9/13 up
   中浜万次郎の事。


白峰駿馬
白峰駿馬   しらみねしゅんめ1847-1909 〔長岡〕 2010/9/14 up
   長岡藩出身。海援隊士。
文久2年に江戸に出て、勝海舟が頭取をつとめる軍艦操練所で学ぶ。元治元年4月には神戸に赴き、勝の海軍塾に入門し、龍馬らと修行に励んだ。慶応元年閏5月には亀山社中結成に参加する。翌2年10月に購入した対極丸に船長として乗り組み、大阪に滞在。翌3年6月に上京して酢屋に下宿した。
慶応4年には隊を離れて新政府に出仕したが、菅野覚兵衛が戊辰戦争から凱旋すると、明治2年にともにアメリカへ渡航する。同7年に帰国後は海軍省に迎えられるが、間もなく官を辞し、日本最初の民間造船所である白峰造船所を設立して活躍した。


関義臣
関義臣   せきよしおみ1840-1918 〔福井〕 2011/1/7 up
   関龍二。福井藩士。海援隊士。
慶応2年12月、長文の意見書を携え、龍馬を長崎に訪ね、意気投合して亀山社中の一員となり、龍馬と後藤象二郎に兄事した。慶応3年7月10日、社中の了解を得てグラバーとローナ商船のゼームスの世話により船に乗り込み英国に向かった。途中、香港沖で難破し救助され、上海経由で長崎へ帰着した。
維新後は徳島、山形県知事などを歴任。明治30年12月貴族院議員。明治40年9月男爵。享年80歳。


斎藤利行
斎藤利行   さいとうとしゆき1822-1881 〔土佐〕 2011/1/9 up
   渡辺弥久馬のこと。十三代土佐藩主山内豊てるの御側物頭となり、おこぜ組の一員として活躍。のち反対党のため失脚。嘉永年中、吉田東洋に抜擢され、新おこぜ組の一員となる。慶応3年、イカルス号事件の際、後藤象二郎を扶けて談判要員として活躍。
 慶応3年9月24日、龍馬が長崎より銃器を運んで高知浦戸へ入稿した際、龍馬からの書状を見た渡辺は時勢切迫をしり、銃器購入を決めた。
 維新後は斎藤利行に改名。明治3年2月刑部大輔、5月参議。明治8年7月元老院議官。享年60歳。


沢辺琢磨
沢辺琢磨   さわべたくま1836-1913 〔土佐〕 2011/1/9 up
    山本数馬。土佐藩士。武市半平太の妻富子は従姉妹。琢磨の父と龍馬の父は従姉妹。
 江戸の桃井春蔵の道場で修行中の安政4年8月4日、田那村作八と外出したさいに田那村が酒に酔って通行人にからみ、商人の佐州屋金八が投げ出していった風呂敷包みにあった二個の時計を道具屋に売りとがしたことから、事件が明るみに出る。藩邸で問題となり、武市半平太の尋問に罪を認めたため、武市と龍馬が佐収屋を訪れて事件を落着させた。山本はとりあえず謹慎処分と決定されるが、不名誉な事件のために切腹させられる恐れもあり、武市と龍馬の計らいで逃亡し蝦夷に渡る。
 同地で神明神宮司沢辺幸司の女婿となり、沢辺姓と神職を継ぐ。明治になってロシア人修道司祭ニコライより先例を受けてキリスト教徒となるが、禁教下のため迫害を受け明治3年には仙台で入獄し、放免後もキリスト者としての道を歩んだ。享年80歳。