◆    カ行    ◆

和宮
和宮   かずのみや1846-1877 〔将軍家〕 2019/9/19 up
   孝明天皇の妹・和宮は6歳のとき有栖川宮熾仁親王と婚約した。しかし、公武合体のため婚約を解消し、14代将軍・徳川家茂と結婚することが決められた。最初は断った和宮だったが、兄の苦しむ顔を見て、結婚を決意した。江戸城に入った和宮は、徳川家定の妻・篤姫につらくあたられたという。しかし、和宮とおなじ17歳の家茂は、和宮をいたわり、やさしかった。和宮も、まじめな家茂を愛するようになった。二人の結婚生活は、家茂の急死によって4年で終わったが、和宮は朝廷に戻らず、徳川家に残った。幕府が倒れた後、新政府軍が江戸城に迫った時、和宮は「徳川家を滅ぼすなら自分も死ぬ覚悟」と伝え、攻撃を中止させるために力を尽くした。その後、京都に戻り、再び東京へ戻った。


勝海舟
勝海舟   かつかいしゅう1823-1899 〔幕臣〕 2000/1/5 up
   江戸本所の貧しい旗本の家に生まれた。西洋兵学を学ぶために、蘭語を習得。大久保一扇に見出され、幕臣となる。長崎に海軍伝習所を開設、江戸に戻り軍艦操練所の教授方頭取に就任。日米修好通商条約批准のため咸臨丸の船長として渡米。帰国後、海軍奉行に任じられる。文久2年(1862)10月、初対面の坂本龍馬をその場で門下生とし、後に神戸海軍操練所を設立したとき龍馬を(私塾の)塾頭にする。ところが尊攘派の志士までも入門させたことから、海軍奉行を解任させられる。失脚した勝は、龍馬たちのことを薩摩の西郷隆盛に託した。鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が朝敵として江戸に帰還したとき、海舟は戦火の危機に見舞われる江戸を守るべく、慶喜に恭順を誓わせ、全権を委任され西郷隆盛と江戸薩摩藩邸で会見し、江戸無血開城を果たした。


桂小五郎
桂小五郎   かつらこごろう1833-1877 〔長州〕 2000/1/5 up
   木戸孝允のこと。長州萩の藩医・和田昌景の子として生まれた。8歳のとき、長州藩士・桂孝古の養子となったが、養父がすぐに死亡したため、生家で育った。17歳のとき、萩で吉田松陰から山鹿流兵学を教えられた。松下村塾では学ばなかったが、松陰の高弟と見られている。20歳のとき、自費で江戸に遊学、斉藤弥九郎の道場に入門し、後年塾頭となる。長州藩の外交担当として惨劇をさけて選考し活躍し、維新の三傑と呼ばれている。


河田小龍
河田小龍   かわたしょうりょう1824-1898 〔土佐〕 2000/1/5 up
   土佐藩の画家。天保7(1836)年に島本蘭渓について絵画を学び、天保10(1839)年には岡本寧甫に儒学を学んだ。弘化3(1846)年に、参政吉田東洋に従って京都・大阪に出、狩野永岳に師事して狩野派の絵師に列し、さらに中村竹洞について南画の技法を修めた。この頃から吉田東洋から才気を認められ、政治的な用向きにもたずさらるようになった。嘉永2(1849)年長崎に遊学する。嘉永5(1852)年、アメリカから帰国した土佐中ノ浜の漂流漁民「中浜万次郎」の取調べを藩より命じられ、その体験を通していっそうの開明的意欲を抱くようになった。その折、小龍は万次郎を3ヶ月間自邸に逗留させ、詳細な口述を取るとともに、得意の絵画を書き添えて『漂巽紀略』四巻をまとめ、藩主山内容堂に献上した。安政(1854)元年には藩命を受けて砲術家田所左右次らとともに薩摩へ出張、反射炉などの進んだ軍事技術を視察した。評判を聞きつけた龍馬は小龍宅を訪れ、安政元年の秋から冬にかけて教えを乞うた。龍馬が幼稚な攘夷意識から脱却し、海に関心を向けるようになったのはこの時からである。小龍は晩年、京都に居住し、狩野派から選ばれて二条城襖絵修理に参画した。


木戸孝允
木戸孝允   きどたかよし1833-1877 〔長州〕 2000/1/5 up
   桂小五郎のこと。


清河八郎
清河八郎   きよかわはちろう1830-1863 〔庄内〕 2019/9/20 up
   清河八郎は、庄内藩の藩士の子に生まれた。18歳の時に江戸に出て、千葉周作の道場「玄武館」で剣術を学び、幕府の学校「昌平坂学問所」で学問を学んだ。その後、江戸で剣術と学問の両方をひとりで教える熟を開いた。その後、全国を回った八郎は各地の志士たちと意見を交わし、尊王攘夷論者となった。八郎は尊王攘夷をおこなうために、強力な先頭集団を作りたいと考えた。ちょうどその頃、14代将軍・徳川家茂が江戸から京都の孝明天皇のところへ行くことになった。八郎が「家茂様を警護する集団を組織するべき」と幕府に提案すると、これが採用され「浪士組」が組織された。ところが警護の仕事が無事終わると、八郎は浪士組の隊士たちに「本当の目的は尊王攘夷を実行することだ」と語った。八郎に反対した近藤勇土方歳三らは京都に残ったが、八郎は賛成した200人を率いて江戸にもどった。この動きが幕府に伝わり、危険人物と見られた八郎は、幕府の放った剣士・佐々木只三郎に暗殺された。


久坂玄瑞
久坂玄瑞   くさかげんずい1840-1864 〔長州〕 2000/1/5 up
   吉田松陰の開いた松下村塾最初の入門者で、幼なじみの高杉晋作と「松門の双璧」と称され、松陰からも「長州第一の人物」と高く評価された。藩論を公武合体から尊皇攘夷に一変させ、イギリス公使館焼き討ち事件・下関の外国船砲撃などに参加し、奇兵隊の元となる光明寺党を結成する。八・一八の政変では尊攘派七卿を伴い都落ちする。禁門の変では指揮をしていたが、鉄砲で打たれ負傷しもはやこれまでと自刃する。


グラバー
グラバー   ぐらばー1838-1911 〔英国〕 2011/1/7 up
   英国の貿易商人。父が上海で商売をしていた関係で、21歳のとき、開港直後の長崎を訪れた。その3年後にはグラバー商会を大浦に設立する。諸藩に鉄砲・弾薬・大砲・軍艦売りさばき、絹・茶・金などを輸出し巨万の富を築いた。グラバーは先見の明があり、坂本龍馬や高杉晋作をかくまったり、伊藤博文ら長州藩の若者5名を英国へ密航させたり、薩摩藩士の英国留学を手伝ったりした。日本茶の輸出で成功した大浦屋のお慶(大浦慶)を龍馬に引き合わせたのもグラバーである。しかし、維新後、グラバー商会は各藩への貸し倒れのため倒産した。その後、岩崎弥太郎の三菱商会の顧問となり、日本で没した。


孝明天皇
孝明天皇   こうめいてんのう1831-1866 〔天皇〕 2019/9/19 up
   老中・堀田正睦vがアメリカとの通商条約を結ぶ許可を求めてきたが、攘夷派だった孝明天皇は、これに反対した。しかし、大老・井伊直弼は、天皇の許可なしで日米修好通商条約を結んでしまった。攘夷派ではあったが、公武合体には賛成のため、妹・和宮と14代将軍・徳川家茂を結婚させることを受け入れた。しかし天皇は、上位に突き進む長州藩に対して、行動が過激すぎると感じていた。1864年、長州藩が京都での勢力の回復を目指して御所に攻め込んできたとき、天皇は長州藩をうつように命令し、長州藩を破った会津藩主・松平容保を信頼するようになった。しかしその2年後、36歳の若さで病死した。


小松帯刀
小松帯刀   こまつたてわき1835-1870 〔薩摩〕 2000/1/5 up
   薩摩藩の出身者としては、西郷隆盛についで龍馬から信頼を寄せられた人物。島津久光の藩政後見のもとで、文久2(1862)年家老にのぼったが、もっぱら京都藩邸に駐在して藩の外交の任にあたった。龍馬と交際が始まったのは、元治元(1864)年、神戸海軍操練所の閉鎖が決定的になった時のことで、勝海舟より龍馬らの身柄を預けられ、その約束の履行に西郷と率先挺身した。薩長同盟の際も、藩論をその方向にまとめ、締結の責任者の役を果たすなど、種々尽力した。また、龍馬がお竜と新婚旅行に出かけたとき、鹿児島の宿を提供したのも帯刀だった。さらに、龍馬が亀山社中を結成した折も、西郷とはかって三両二分の生活費を支給するなど、後援の手をさしのべた。維新政府に出仕し、版籍奉還の事業に参画したが、大阪で病没。


近藤勇
近藤勇   こんどういさみ1834-1868 〔新撰組〕 2000/1/5 up
   武州多摩郡で組頭を努める富農家の三男に生まれる。天然理心流の近藤周助に出稽古を受けていたが、17歳のとき周助の養子となる。間もなく四代目師範を継承。清河八郎に呼応し、試衛館門下の土方歳三沖田総司らと浪士隊六番隊として上洛する。京都で攘夷宣言した清河と別れて、水戸脱藩浪士芹沢鴨、新見錦らと会津藩預かりの新撰組を結成する。やがて新撰組の評判を落としていた芹沢派を次々に粛清し、厳しい規則「局中法度」を定め畏怖される存在となる。池田屋事件では沖田総司らわずか5名で乗り込み、壮絶な斬り合いをして全国へ新撰組の名を轟かせた。伏見で元新撰組伊藤甲子太郎暗殺の復讐で襲撃され、鳥羽伏見の戦いへは参加できなかった。勝海舟の工作で甲陽鎮撫隊を組織させられ甲府へと向かうが、甲府は板垣退助の討伐軍に押さえられていた。敗走した勇は、徹底抗戦を主張する盟友土方歳三と決別し、下総流山で官軍へ降伏する。坂本龍馬暗殺の汚名を着せられた勇は、切腹も許されず板橋の刑場で斬首された。


近藤長次郎
近藤長次郎   こんどうちょうじろう1838-1866 〔土佐〕 2000/1/5 up
   河田小龍の門下生。生家は高知城下の饅頭屋。文久2(1862)年、龍馬の勧めで勝海舟に師事し、翌年に土佐藩から士分に取りたてられた。その後、亀山社中の設立に尽力した。慶応元(1865)年、龍馬の命を受け、長州藩のために武器弾薬や艦船購入を斡旋、英国商人グラバーからユニオン号などを買い入れた。しかし、長州藩からの謝礼金を私し、英国渡航を企てたことが露顕し、社中の内規違反として切腹に追い込まれた。


五代友厚
五代友厚   ごだいともあつ1835-1885 〔薩摩〕 2001/8/30 up
   薩摩藩儒五代直左衛門秀尭の二男として出生。幼名才助。父秀尭は琉球貿易にも関与し実業の手腕があり、才助にも親譲りの才質があった。十三歳の時才助は、書院勤めの父の預かった世界地図を模写して藩主斉彬仁献上した。安政元(1854)年郡方書役となり、翌年選ぱれて幕府の長崎海軍伝習所に入り学ぶ。文久二(1862)年幕艦千歳丸で長州藩士高杉晋作らと上海に渡り、英国の植民地と化した清国の状況をつぶさに見る。帰途ドイツ船(天祐丸)を購入、船長として帰国した。翌年の薩英戦争で、才助は英国軍の捕膚となる。横浜で釈放されて長埼に帰り、英国商人クラバーの元に潜伏。開国通商論者上して攘夷派に狙われた。のち留学生をヨーロッパに派遣することを薩摩藩に建議して採用され、慶応元(1865)年正月、クラバーの斡旋で、留学生十五人に通訳らを合わせ、計十八人でイギリスに渡抗した。翌年帰国し、御納戸奉行格、御用人席外国掛となった。才助と龍馬との接触はこの頃からで、慶応2年7月長崎で会い、大洲藩所有のいろは丸を海援隊のチャーター船として世語した。同年11月才助は龍馬と共に下関へ赴き、長州の広沢真臣と三者で薩長合弁商社の設立を企てたが、これは実現しなかった。慶応3(1867)年春仁突発した、いろは丸衝突沈没事件の際、紀州藩は五代に伸裁を依頼した。土佐側後藤象二郎、紀州藩代表茂田一次郎との問で会談し、五代の裁配により賠償金八万三千両(龍馬没後、七万両を受領)で決着した。明治元(1868)年五代は新政府の参与兼外国事務掛に取り立てられたが、政界官界に入るのを望まず下野し、経済人として関西を舞台に活躍した。大阪にあって、株式取引所、商法会議所(大阪商工会議所)、大阪商業講習所(のち大阪商科大学、大阪市立大学)、大阪為替会社、大阪造幣局など各機関の設立に尽力。自らも製鋼、貿易、鉄道、桟橋設営等に参画した。大阪製鋼、関西貿易社、阪堺鉄道などの企業を経営し、聞西の産業実業の近代化に大きな功績を残した。経済人でもあった龍馬のあとを継ぎ、近代化事業を手広く果たし、渋沢栄一と双璧をなす存在であった。


後藤象二郎
後藤象二郎   ごとうしょうじろう1838-1897 〔土佐〕 2000/1/5 up
   土佐藩士正晴の子。早くから父をなくし、姉の夫である吉田東洋に教育された。東洋が暗殺されてからしばらく不遇の時期が続いたので、江戸に出て航海術などを学んで時期を待っていた。山内容堂によって尊攘派が追放されると土佐に帰り、大監察として容堂の右腕となり、武市瑞山以下土佐勤王党の弾圧に乗り出した。しかし時代は変わり、長州は藩論を尊攘から討幕へ進め、薩摩も公武合体は時代遅れと討幕へと向かい、薩長同盟が成立した。土佐でも討幕には踏み切れないものの、時勢の転換に何とか対応しなければならないとの考えが強まった。慶応3年(1867)、龍馬と会談して、藩論の転換を決意した。象二郎は龍馬・中岡慎太郎の脱藩を赦し、それぞれ海援隊・陸援隊の指揮を委ねて藩への協力を求めた。その後、龍馬と土佐藩船水練(夕顔)で京都にのぼったが、この船中で龍馬が記述したのが大政奉還のための「船中八策」であった。土佐に帰ると象二郎はただちに登庁して容堂に会い、大政奉還の腹案を説明した。容堂も長州・薩摩を出し抜き土佐が藩が一気に政治の表舞台にあがれるこのアイディアを藩論として決定した。明治新政府では参与、参議に任じられたが、征韓論に敗れて野に下り、民選議員設立の運動をした。後に板垣退助らと共に自由党を結成、通信大臣・農商大臣とふたたび政府の要職に就いた。病死したとき、明治天皇は後藤に哀悼の勅語を賜った。