目次

どんな人?

坂本家の人々

エピソード

龍馬年表

真の龍馬

こぼれ話

龍馬を読む

龍馬を観る

龍馬を聴く

グッズ自慢

龍馬用語事典

龍馬関連人物

龍馬を訪ねる

幕末リンク

龍馬クイズ

      

                                       
  ◆    土佐    ◆

池内蔵太
池内蔵太   いけくらた1841-1866 〔土佐〕 2024/10/5 up
   文久3(1863)年、脱藩。以来、下関の外国船砲撃・天誅組・禁門の変などに参戦し、慶応2(1866)年3月、龍馬の推薦によって亀山社中に加わった。だが、その二ヶ月後、社中の洋帆船ワイルウェフ号に乗って鹿児島に赴く途中、五島沖で暴風雨にあい遭難死した。


板垣退助
板垣退助   いたがきたいすけ1837-1919 〔土佐〕 2000/1/5 up
   土佐出身の退助は、吉田東洋の私塾で学んだ後、討幕運動に参加した。戊辰戦争においては土佐藩の大隊指令・総督府参議として各地を転戦し、とくに会津攻略においては指揮官として活躍した。明治政府では参議を務めたが、征韓論に敗れて辞職。その後、江藤新平や後藤象二郎らと共に愛国公党を結成、自由民権運動のリーダー的存在となった。総理に推されて岐阜で遊説した際、暴漢に襲われたとき「板垣死すとも自由は死せず」との名言を残した。


岩崎弥太郎
岩崎弥太郎   いわさきやたろう1834-1885 〔土佐〕 2000/1/5 up
   父親が郷士株を売ったため、地下浪人して育つ。吉田東洋の門下生。龍馬の海援隊・後藤象二郎の土佐商会とも大赤字であったが、この財務調整を任された。維新後も土佐商会の運営を任されるが、廃藩置県から民営化され、九十九商会と改称、後に家紋をマークにして三菱商会とあらためる。土佐藩の「夕顔」「鶴」など四隻の汽船を借り、軍事輸送を独占する。大久保利通・大熊重信らの人脈に、台湾出兵・西南戦争の軍需景気が背景となり、三菱は急成長する。国内船舶の7割を押さえ海運業を独占した岩崎だが、強力なパイプであった大熊重信が失脚してしまう。そんな折、三菱の独占を面白く思っていなかった三井と薩長派が結びつき共同運輸会社を設立し、運賃のダンピング競争で三菱を窮地に追い込まれ、三菱は共同運輸会社との合併により日本郵船会社となる。その後、社名を三菱社に変更し炭坑と造船所を中心にして事業の多角化をはかる。


大江卓
大江卓   おおえたく1848-1921 〔土佐〕 2011/1/9 up
   慶応3年9月、砲術修行で長崎遊学中、海援隊の石田英吉・中島作太郎と親交を結ぶ。近江屋事件後の23日、陸援隊に加入。まもなく龍馬殺害を示唆したという噂のある紀州藩の三浦休太郎襲撃計画に参画し実行委員の一人となる。12月6日夜、三浦を一力亭の帰途に襲撃するが人違いで失敗。翌7日三浦の宿舎である油小路花町下ル天満屋に斬り込む。
 明治3年から部落解放運動を志す。同5年神奈川県令。西南戦争で政府転覆を企てたため投獄。出獄後、政党運動に身を投じ、23年衆議院議員となる。享年57歳。


岡田以蔵
岡田以蔵   おかだいぞう1838-1865 〔土佐〕 2025/4/6 up
   土佐郡江口村の生まれ。文久2年(1862)のの坂下門外の変以来、京都では「天誅」と称する暗殺事件が続いた。天誅を行なったテロリストのうち、もっとも名のあったのは土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛、肥後の河上彦斎らで、岡田は「人斬り以蔵」と呼ばれ恐れられていた。以蔵は武市瑞山の忠実な部下で、数々の暗殺にかかわった。あるとき、龍馬が勝海舟の護衛を以蔵に頼んだが、海舟が京都寺町通りで三人の刺客に取り囲まれた。以蔵は一瞬にして一人を切り捨て、あとの二人は大急ぎで逃げた。後日、海舟が以蔵に「そんなに人を斬るもんじゃない」とたしなめると、以蔵は「あの時、俺が斬らなかったら、先生は斬られてたんですよ」と返すと、さすがの海舟も言葉が出なかった。文久3年姉小路公知卿が斬られると土佐藩から下手人の嫌疑をうけ、土居鉄三と改名したが、間もなく武市派の一人として下獄し、日夜拷問攻めにあったあげく、慶応元年(1865)7月11日斬罪に処された。


河田小龍
河田小龍   かわたしょうりょう1824-1898 〔土佐〕 2000/1/5 up
   土佐藩の画家。天保7(1836)年に島本蘭渓について絵画を学び、天保10(1839)年には岡本寧甫に儒学を学んだ。弘化3(1846)年に、参政吉田東洋に従って京都・大阪に出、狩野永岳に師事して狩野派の絵師に列し、さらに中村竹洞について南画の技法を修めた。この頃から吉田東洋から才気を認められ、政治的な用向きにもたずさらるようになった。嘉永2(1849)年長崎に遊学する。嘉永5(1852)年、アメリカから帰国した土佐中ノ浜の漂流漁民「中浜万次郎」の取調べを藩より命じられ、その体験を通していっそうの開明的意欲を抱くようになった。その折、小龍は万次郎を3ヶ月間自邸に逗留させ、詳細な口述を取るとともに、得意の絵画を書き添えて『漂巽紀略』四巻をまとめ、藩主山内容堂に献上した。安政(1854)元年には藩命を受けて砲術家田所左右次らとともに薩摩へ出張、反射炉などの進んだ軍事技術を視察した。評判を聞きつけた龍馬は小龍宅を訪れ、安政元年の秋から冬にかけて教えを乞うた。龍馬が幼稚な攘夷意識から脱却し、海に関心を向けるようになったのはこの時からである。小龍は晩年、京都に居住し、狩野派から選ばれて二条城襖絵修理に参画した。


近藤長次郎
近藤長次郎   こんどうちょうじろう1838-1866 〔土佐〕 2000/1/5 up
   河田小龍の門下生。生家は高知城下の饅頭屋。文久2(1862)年、龍馬の勧めで勝海舟に師事し、翌年に土佐藩から士分に取りたてられた。その後、亀山社中の設立に尽力した。慶応元(1865)年、龍馬の命を受け、長州藩のために武器弾薬や艦船購入を斡旋、英国商人グラバーからユニオン号などを買い入れた。しかし、長州藩からの謝礼金を私し、英国渡航を企てたことが露顕し、社中の内規違反として切腹に追い込まれた。


後藤象二郎
後藤象二郎   ごとうしょうじろう1838-1897 〔土佐〕 2000/1/5 up
   土佐藩士正晴の子。早くから父をなくし、姉の夫である吉田東洋に教育された。東洋が暗殺されてからしばらく不遇の時期が続いたので、江戸に出て航海術などを学んで時期を待っていた。山内容堂によって尊攘派が追放されると土佐に帰り、大監察として容堂の右腕となり、武市瑞山以下土佐勤王党の弾圧に乗り出した。しかし時代は変わり、長州は藩論を尊攘から討幕へ進め、薩摩も公武合体は時代遅れと討幕へと向かい、薩長同盟が成立した。土佐でも討幕には踏み切れないものの、時勢の転換に何とか対応しなければならないとの考えが強まった。慶応3年(1867)、龍馬と会談して、藩論の転換を決意した。象二郎は龍馬・中岡慎太郎の脱藩を赦し、それぞれ海援隊・陸援隊の指揮を委ねて藩への協力を求めた。その後、龍馬と土佐藩船水練(夕顔)で京都にのぼったが、この船中で龍馬が記述したのが大政奉還のための「船中八策」であった。土佐に帰ると象二郎はただちに登庁して容堂に会い、大政奉還の腹案を説明した。容堂も長州・薩摩を出し抜き土佐が藩が一気に政治の表舞台にあがれるこのアイディアを藩論として決定した。明治新政府では参与、参議に任じられたが、征韓論に敗れて野に下り、民選議員設立の運動をした。後に板垣退助らと共に自由党を結成、通信大臣・農商大臣とふたたび政府の要職に就いた。病死したとき、明治天皇は後藤に哀悼の勅語を賜った。


斎藤利行
斎藤利行   さいとうとしゆき1822-1881 〔土佐〕 2011/1/9 up
   渡辺弥久馬のこと。十三代土佐藩主山内豊てるの御側物頭となり、おこぜ組の一員として活躍。のち反対党のため失脚。嘉永年中、吉田東洋に抜擢され、新おこぜ組の一員となる。慶応3年、イカルス号事件の際、後藤象二郎を扶けて談判要員として活躍。
 慶応3年9月24日、龍馬が長崎より銃器を運んで高知浦戸へ入稿した際、龍馬からの書状を見た渡辺は時勢切迫をしり、銃器購入を決めた。
 維新後は斎藤利行に改名。明治3年2月刑部大輔、5月参議。明治8年7月元老院議官。享年60歳。


坂本伊與
坂本伊與   さかもといよ1831-1879 〔土佐〕 2001/9/29 up
   龍馬の継母。八平の後妻。北代平助の長女。長ずるにおよび美人の誉れが高くなり、山内容堂公の住む下屋敷に祐筆として仕え、奥女中に薙刀を指南していた。聡明で勝気な反面、慈悲心が強く、義理固く、母思いであった。龍馬を躾のために、食事もおあずけで板の間に端座させたところを人に見られ、いじめていると誤解された。龍馬の伊與あての手紙が一通も残っていないが、これは北代家が維新後に4~5回引っ越しているため、亡失したものと考えられる。


坂本栄
坂本栄   さかもとえい?-1844・47 〔土佐〕 2001/9/29 up
   龍馬の次姉。柴田作右衛門に嫁ぐ。龍馬の脱藩に際して、家宝の銘刀を渡した責めを負って自刃したと伝えられていることが多いが、昭和63年に「柴田作右衛門妻 坂本八平女」という碑銘墓が発見され、没年が弘化年間(1844~1847年)であることが確認されたので、栄は龍馬が12・3歳の時に亡くなったらしい。


坂本乙女
坂本乙女   さかもとおとめ1831-1879 〔土佐〕 2000/1/5 up
   龍馬の三歳年上の末姉。体躯巨大で身長五尺八寸、体重三十貫に近く「坂本のお仁王様」と渾名されたという。龍馬が送った乙女宛の手紙が20通近く残されている。剣術は切紙の腕前で、馬、弓術、水練も出来、経書、和歌、絵画も学び、琴、三味線、舞踊、謡曲、浄瑠璃、琵琶歌、一弦琴から義丈夫の音曲が出来た学芸・スポーツ万能の女性で、ただし料理・裁縫が苦手であった。母幸亡き後、龍馬の成長に多大の影響をあたえる。26、7歳のころ本丁筋二丁目の藩医岡上樹庵に嫁し一男一女を生んだが、離婚して坂本家に帰っている。


坂本幸
坂本幸   さかもとこう1796-1846 〔土佐〕 2025/4/6 up
   龍馬の実母。土佐藩士坂本八蔵直澄の一人娘。山本覚右衛門の次男八平直足を養子に迎え、龍馬ら二男三女をもうける。猫が好きで、龍馬懐妊中も猫を抱いていたので、龍馬の背に怪毛がはえたという伝説がある。また同じく龍馬懐妊中に風雲奔馬が体内にとびこんだ夢を見たので、龍馬と名付けたともいう伝説もある。弘化3(1846)年6月10日、夫よりもはやく49歳で没。


坂本権平
坂本権平   さかもとごんべい1814-1871 〔土佐〕 2000/1/5 up
   龍馬より22歳年上の兄。大蔵、佐吉とも名のる。諱は直方。安政3年2月、家督、領地、俸禄を相続して、四代目当主となる。温厚実直な人柄で、一絃琴をよく演奏する。京都藩邸臨時用役、御廟所番、御築山番を務め、安政の頃土佐藩砲術師範徳弘董斎に就き、砲術奥義を授かっている。


坂本千鶴
坂本千鶴   さかもとちず1817-1861 〔土佐〕 2001/9/29 up
   龍馬の長姉。安芸郡安田村郷士高松順蔵に嫁して、長男高松太郎(海援隊士、坂本直)、次男南海男(自由民権論者、北海道開拓キリスト教伝導家、坂本直寛)を生む。いずれも後に郷士坂本家跡を継いでいる。


坂本直
坂本直   さかもとなお1842-1898 〔土佐〕 2024/10/13 up
   高松太郎。母は龍馬の長姉坂本千鶴。文久2(1862)年頃、土佐勤王党に加盟し、同年8月、藩主に従って上京、大原重徳・姉小路らの公卿の邸に出入りした。文久3(1863)年1月、龍馬の斡旋により、勝海舟に師事し学んだ。一時、土佐藩吏殺害事件の嫌疑を受けて薩摩藩に潜伏し、同藩海軍の訓練にあたったりしたが、亀山社中設立以来、龍馬を助けて行動をともにした。はじめ、長崎にいたが、慶応3(1867)年頃より大阪の土佐藩定宿薩摩屋に駐在して商業活動を行った。明治4年8月20日、朝旨により「坂本直」として龍馬遺跡を相続した。


坂本直寛
坂本直寛   さかもとなおひろ1853-1911 〔土佐〕 2024/10/13 up
   南海男(なみお)。母は龍馬の長姉坂本千鶴で、直寛は次男。兄は坂本直(高松太郎)。17歳の時、伯父・坂本権平の養嗣子となり、郷士坂本家の当主となった。妻は春猪の娘である鶴井。孫に北海道の六花亭の包装紙などで有名な、山岳画家坂本直行さんがいる。
明治になると、自由民権運動に参加。明治18年、高知基督協会設立に伴い、洗礼を受けキリスト教に入信する。
明治20年で、明治政府への建白書を提出するために上京した坂本は、退去命令を拒否したために逮捕される。軽禁固2年6か月の判決を受けて投獄される。明治20年、大赦により出獄し、高知に帰る。
明治26年、議員を辞職して北海道開拓を始める。


坂本八平
坂本八平   さかもとはちへい1797-1855 〔土佐〕 2001/9/29 up
   龍馬の父。諱は直足(なおたり)。土佐郡潮江村(高知市潮江)の白札(郷士とも)山本家より、郷士坂本家の一人娘幸に婿養子としてむかえられた。弓槍は免許皆伝で書や歌もたしなむ。龍馬が嘉永6年3月に江戸修行に赴く際与えた「修行中心得大意」には、忠孝を忘れず修行第一、諸道具に銀銭を費やさない、色情に心を移し国家の大事を忘れない、という三箇条が記されている。


坂本春猪
坂本春猪   さかもとはるい1843-? 〔土佐〕 2001/9/29 up
   龍馬の姪。坂本権平の娘。龍馬とは叔父と姪の間柄だったが、歳が8つしか違わないため、龍馬に妹のように可愛がられた。龍馬から春猪宛の手紙は2通確認されている。文久のころ、家老山内下総家来の鎌田実清次男の清次郎を婿養子に迎えた。元治元年に長女鶴井を、慶応元年に次女兎美(富)生む。清次郎は慶応3年脱藩して龍馬を頼り、後年帰国して坂本家を出、名を三好賜と改めた。春猪も三好家に入り美登と改める。夫の没後、札幌で牧師をしていた坂本直寛を頼るも、直寛の後妻と合わず高知に帰る


佐々木高行
佐々木高行   ささきたかゆき1830-1910 〔土佐〕 2000/1/5 up
   家禄は五十八石と少ないが、土佐藩では数少ない上士の尊攘派として活躍した。郡奉行・普請奉行などを歴任し、慶応2(1866)年、大宰府に三条実美らを訪問して以後、時勢を見通して倒幕派に傾いた。慶応3(1867)年、大監察に昇って上洛し、大政奉還の周旋のため、龍馬らとたびたび協議した。同年7月、英国水平殺害事件がおこり、その嫌疑が海援隊、土佐藩にかかると、その解決のため龍馬と力を合わせた。龍馬暗殺の報に接した時「今日は天下一人の仇討をする場合ではない。大仇討の策略が肝要だ。之が却って坂本の本意でもあろう」と激昂する同志の慰撫に努めた。晩年は明治天皇の側近として仕えた。


沢辺琢磨
沢辺琢磨   さわべたくま1836-1913 〔土佐〕 2025/4/6 up
    山本数馬。土佐藩士。武市半平太の妻富子は従姉妹。琢磨の父と龍馬の父は従姉妹。
 江戸の桃井春蔵の道場で修行中の安政4年8月4日、田那村作八と外出したさいに田那村が酒に酔って通行人にからみ、商人の佐州屋金八が投げ出していった風呂敷包みにあった二個の時計を道具屋に売りとがしたことから、事件が明るみに出る。藩邸で問題となり、武市半平太の尋問に罪を認めたため、武市と龍馬が佐収屋を訪れて事件を落着させた。山本はとりあえず謹慎処分と決定されるが、不名誉な事件のために切腹させられる恐れもあり、武市と龍馬の計らいで逃亡し蝦夷に渡る。
 同地で神明神宮司沢辺幸司の女婿となり、沢辺姓と神職を継ぐ。明治になってロシア人修道司祭ニコライより先例を受けてキリスト教徒となるが、禁教下のため迫害を受け明治3年には仙台で入獄し、放免後もキリスト者としての道を歩んだ。享年80歳。


沢村惣之丞
沢村惣之丞   さわむらそうのじょう1843-1868 〔土佐〕 2000/1/5 up
   土佐郡潮江村の地下浪人の家に生まれ、間崎哲馬の塾に入門。文久元(1861)年、土佐勤王党に加盟したが、翌年3月に龍馬とともに脱藩。その後、長州に赴いて久坂玄瑞ら同藩尊攘派と交遊し、文久3(1863)年、京都に滞在中に龍馬の紹介で勝海舟の門下生となった。同年4月、江戸に出て大久保一翁と面会し、龍馬と並ぶ具眼の士と評価を与えられた。以後も龍馬と行動をともにし、勝塾に入って、英語・航海術を研修。ついで海援隊に加わり、龍馬の右腕となって隊務に専念した。慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見に戦報が届き、長崎奉行河津祐邦らが江戸へ逃走すると、龍馬亡きあと海援隊を掌握していた佐々木高行に従い、奉行所を占拠し市中の治安維持にあたった。だが、その折に薩摩藩士を誤殺し、責を負って自刃する。


ジョン万次郎
ジョン万次郎   じょんまんじろう1827-1898 〔土佐〕 2010/9/13 up
   中浜万次郎の事。


菅野覚兵衛
菅野覚兵衛   すがのかくべい1842-1893 〔土佐〕 2001/8/24 up
   千屋寅之助のこと。土佐国安芸郡和喰村出生。同地庄屋民五郎の三男。土佐勤王党千屋菊次郎、金策は従兄弟。剣を小川為十郎、書を川村柳意に学び、土佐勤王党に加盟。中岡慎太郎らといわゆる五十人組に加わり上京、文久2年、旧知の高松太郎の紹介で、望月亀弥太とともに龍馬を知った。龍馬の勧めで勝塾に入り、以後、行動をともにする。第二次長征戦では、ユニオン号船将となり、長州軍の士気を高めた。イカルス号事件では水夫殺害嫌疑に対し、長崎奉行所で毅然とした態度を貫く。慶応4(1868)年3月、楢崎将作の三女、起美と長崎で結婚。全ては姉のお竜のてはずだったが、龍馬の意向でもあったようだ。戊辰の役には長崎振遠隊の幹部として奥羽地方の内戦救援に参加。明治2年には、白峰駿馬といろは丸沈没の賠償金の配分金を持って米国ニュージャージー州のラトガース大学に留学。明治7年に帰国して海軍に入った。明治10年西南の役には、鹿児島磯の造船所の責任者として、武器庫にあった弾薬を水に浸して機敏な処置をしたが、明治17年海軍を辞職、福島県安積郡富久村に入植して開拓に取り組む。


高松太郎
高松太郎   たかまつたろう1842-1898 〔土佐〕 2000/1/5 up
   母は龍馬の長姉坂本千鶴。文久2(1862)年頃、土佐勤王党に加盟し、同年8月、藩主に従って上京、大原重徳・姉小路らの公卿の邸に出入りした。文久3(1863)年1月、龍馬の斡旋により、勝海舟に師事し学んだ。一時、土佐藩吏殺害事件の嫌疑を受けて薩摩藩に潜伏し、同藩海軍の訓練にあたったりしたが、亀山社中設立以来、龍馬を助けて行動をともにした。はじめ、長崎にいたが、慶応3(1867)年頃より大阪の土佐藩定宿薩摩屋に駐在して商業活動を行った。明治4年8月20日、朝旨により「坂本直」として龍馬遺跡を相続した。


武市瑞山
武市瑞山   たけちずいざん1829-1865 〔土佐〕 2025/4/6 up
   土佐勤王党の首領。武市瑞山は半平太ともいい、「春雨じゃ濡れて行こう」というセリフで有名な芝居の月形半平太のモデルといわれている。生家は土佐藩の郷士で、身分は低かったが経済的に豊かだった。江戸で桃井春蔵に入門し、やがて塾頭となる。文久元年(1861)8月、坂本龍馬らと土佐勤王党を結成、約200名の同志を得ると、参政の吉田東洋を説いて、藩を尊攘の軌道に乗せようとした。しかし、東洋は取り合おうともしなかったため、文久2年4月に、那須信吾らの刺客をおくって暗殺した。世の中も尊王攘夷に傾きまさに武市の時代を迎えたが、文久3年8月、京都で公武合体派がクーデターに成功し情勢は一変した。この時、土佐藩主山内容堂はもともと公武合体論者であったので、天皇親政論の瑞山らを捕らえて投獄、慶応元年(1865)潤5月11日に切腹を命じた。


武市半平太
武市半平太   たけちはんぺいた1829-1865 〔土佐〕 2000/1/5 up
   武市瑞山の通称。


田中光顕
田中光顕   たなかみつあき1843-1939 〔土佐〕 2011/1/8 up
   浜田辰弥。陸援隊隊士。藩家老深尾鼎の家臣で、二人半扶持の小身だった。武市瑞山に師事して剣術を修め、土佐勤皇党に加盟した。吉田東洋暗殺の主犯格那須信吾は叔父にあたる。文久3(1863)年、藩命により上京したが、龍馬らと交わって尊攘運動に奔走したため、蟄居謹慎の処分を受けた。元治元(1864)年、脱藩して長州をたより、本姓浜田を田中光顕と改名した。ついで中岡慎太郎に兄事し、薩長同盟の周旋に協力、慶応3(1867)年、陸援隊に投じてその幹部となった。龍馬が暗殺された時、いち早く現場にかけつけ、中岡の証言などを聞き取っている。維新後、新政府に出仕し、退官後は青山文庫を創立するなど、龍馬ら維新志士の顕彰につとめた。


谷干城
谷干城   たにたてき1837-1911 〔土佐〕 2025/4/6 up
   谷干城は、土佐藩の学者の家に生まれ、23歳のとき江戸に留学した。武市半平太と知り合って尊王攘夷派になったが、1866年、藩の命令で上海に出張した時、西洋諸国の実力を知り、攘夷論を捨てた。長崎に戻った干城は、坂本龍馬や後藤象二郎と交流した。翌年、板垣退助らとともに、薩摩藩と手を結び、武力で幕府を倒すことを目指した。戊辰戦争では新政府軍に参加して東北地方で戦った。新政府では、陸軍に入り、佐賀の乱や台湾出兵で活躍した後、1876年、熊本鎮台司令官となった。翌年、西南戦争がはじまると、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を守り抜き、新政府軍に勝利をもたらした。その後、干城は陸軍を去ったが、1885年、伊藤博文内閣で農商務大臣となり政治家としても活躍した。


千屋寅之助
千屋寅之助   ちやとらのすけ1842-1893 〔土佐〕 2001/8/24 up
   菅野覚兵衛のこと。


徳川斉昭
徳川斉昭   とくがわなりあき1800-1860 〔水戸〕 2019/9/19 up
   徳川斉昭は、水戸藩の藩主の子として生まれ、30歳で水戸藩主を継いだ。その頃、日本近海ではヨーロッパやアメリカの船が多く現れていた。危機を感じた斉昭は、海の守りを固め、軍隊を強化し、大砲などをつくった。また、藩の学校「弘道館」をつくり、尊王攘夷の考え方を広めた。子の徳川慶喜には、早朝から夕方まできびしく勉強させた。1853年、ペリーが開国を求めると、斉昭は老中の阿部正弘から幕府に招かれ、海の守りを受け持つ「海防参与」に任命された。尊王攘夷派の斉昭は開国には反対で、大砲や軍艦を作り戦う準備をはじめた。13代将軍・徳川家定の後継ぎ問題が起こると、斉昭は子の慶喜をおしたが、徳川家茂をおす井伊直弼に敗れ、外出を禁止される罰を受けた。


土居鉄三
土居鉄三   どいてつぞう1838-1865 〔土佐〕 2000/1/5 up
   岡田以蔵のこと。


中岡慎太郎
中岡慎太郎   なかおかしんたろう1838-1867 〔土佐〕 2000/1/5 up
   龍馬と協力して薩長同盟を成立させたが、龍馬のように平和倒幕路線はとらず、武力討幕を最終目標とした。性格的にも、龍馬の陽性・柔軟に対し、重厚・沈着で一途の傾きがあった。生家は十四カ村を差配して苗字帯刀を許された格式高い大庄屋であり、経済的にも恵まれていた。十代のなかばから儒学を間崎哲馬に、剣を武市瑞山に学び、両者の影響を受けて尊攘思想に染まっていった。文久元(1861)年、土佐勤王党が結成されると、ただちに加盟した。文久3(1864)年、土佐勤王党が藩庁の弾圧を受け、自分にも捕縛命令が出たのを機に脱藩し、長州へはしった。慶応元(1865)年潤5月には、西郷隆盛に薩長同盟の趣旨を説き、桂小五郎が待つ長州にて交渉のテーブルにつかせるべく鹿児島に行った。その帰途、同じ目的で長州にいた龍馬と出会い、以後二人は手を取り合って薩長同盟のため奔走する。慶応3(1867)年4月、慎太郎は龍馬とともに脱藩の罪を許され、陸援隊隊長に任命された。ついで、5月に京都で板垣退助と会って土佐藩を武力討幕派へ参加させる工作を行ない、板垣を西郷に紹介し、薩土倒幕密約を結んだ。11月15日夜九時過ぎ、近江屋の二階にて同席の龍馬と刺客に襲撃され闘死 。


中島作太郎
中島作太郎   なかじまさくたろう1846-1899 〔土佐〕 2025/4/6 up
   信行。海援隊士。元治元年11月に脱藩し、長州に投じた。慶応3年1月以前には、亀山社中に加入している。改変された海援隊にモ参加して活躍する。
維新後は新政府に出仕、元老院議員などをつとめるが、土佐出身の板垣退助らを中心に自由民権運動が起こると、自由党の副総理、また立憲制等の総理となった。
陸奥宗光の妹を妻としているが、その死後、女性民権論者として知られる岸田俊子と再婚し、ともに各地を遊説した。明治23年の第一回衆議院議員に当選して初代議長をつとめ、のちに貴族院議員などを歴任。男爵を授けられた。享年54歳。


中浜万次郎
中浜万次郎   なかはままんじろう1827-1898 〔土佐〕 2025/4/6 up
   ジョン万次郎の事。
土佐国幡多郡中ノ浜村の出身。漁民。土佐藩士。幕臣。
天保12年に乗っていた漁船が遭難し、以後12年間、無人島はアメリカ本土での生活を余儀なくされた。嘉永5年に土佐に帰国後は貴重な漂流体験を語り伝える。同年、藩士として取りたれたが、翌6年には幕府に召聘され、軍艦操練所教授などをつとめた。また万延元年には咸臨丸に通訳として乗り組み渡米する。その後は元治元年に薩摩藩の開成館に招かれて教授を務めた。維新後の明治2年、新政府に出仕して開成学校の教授となるが、晩年は官を辞して不遇の生活を送った。
龍馬との接触は資料の上では確認できない。


長岡謙吉
長岡謙吉   ながおかけんきち1834-1872 〔土佐〕 2025/4/6 up
   父は高知城下浦戸町医今井孝順。今井家はもと香美郡野市村の郷士で、祖父参平は郷士株を他譲して高知城下で医師なり、御用人格に召し出された。謙吉もこれを継いだ。
十二、三歳の頃、同じ町内の河田小龍に『文章軌範』を読みたいと頼んで入門する。安政6(1859)年長崎で西洋医術を学び、シーボルトの子アレキサンーに日本語を教えた。文久元(1861)年土佐藩より役人がやってきて、謙吉が国境用居口間道から脱薄した罪を問われ、高知へ送還される。在獄半年後、城東鹿児村に閑居し、懐山と号した。
慶応元(1865)年頃再び脱藩し、鹿児島から長崎に出る。龍馬の海援隊に参加し、文司となり、学問知識を生かして「海援隊約規」を成文化する。ついで偶発したいろは丸沈没事件の審判を記録した。ほかにも海援隊刊行の『閑愁録』は謙吉の仏教振興論であり、『藩論」も謙吉著述が有力視されている。謙吉は龍馬の片腕となり、歴史に残す仕事を果した。明治5年6月東京で病死。


野村辰太郎
野村辰太郎   のむらたつたろう1845-1903 〔土佐〕 2011/1/8 up
    野村維章。海援隊士。慶応2年6月、土佐を脱藩して亀山社中に加入し、10月には社中が購入した大極丸には白峰駿馬とともに船長として乗り組んだ。龍馬の死後の慶応4年1月、海援隊による長崎奉行所の占拠にも参加するが、その際に佐熊藩士を誤殺した沢村惣之丞の切腹に立ち会った。海援隊解散後は、長崎振遠隊の幹部として戊辰戦争に従軍、奥羽方面で戦功を上げる。維新後は茨城県令などをつとめたのち司法官に転じ、控訴院検事長まで進んだ。享年60歳。男爵を授けられる。


平井加尾
平井加尾   ひらいかお1838-1909 〔土佐〕 2010/9/14 up
   平井収二郎の妹。安政6年12月、山内容堂の妹の友姫が三条公睦に嫁いださいに、御付役として上洛し、公睦死後も文久2年まで三条家に仕え帰国した。
龍馬の初恋の人と目されているが、龍馬が文久3年乙女にあてた手紙では、千葉佐那と比較して、顔形は加尾が少し劣ると評しているものの、佐那が「今の平井」と同様だとしているところから、一時の恋愛対象であったことは間違いない。
 慶応2年に西山志澄と結婚し娘をもうけ、のちに娘に養子を迎えて平井家を継がせている。享年72歳。


福岡孝弟
福岡孝弟   ふくおかたかちか1835-1919 〔土佐〕 2000/1/5 up
   生家は土佐藩の家老の支族であり、安政元(1854)年、吉田東洋の門下生となった。安政5(1858)年、東洋が藩政の中枢に復帰すると、後藤象二郎らとともに登用を受け、「新おこぜ組」と呼ばれる若手革新グループを形成した。文久2(1862)年、東洋が土佐勤王党に暗殺されたため、一時沈滞したが、文久3(1863)年、藩情の一変により回復し、後藤と並んで藩政首脳部に列した。慶応2(1866)年11月、上洛して中岡慎太郎と会し、また、西郷隆盛ら薩摩藩重臣と親しく語り合った。その結果、時勢に対する認識をあらため、龍馬や中岡の脱藩罪赦免を山内容堂を説いて、翌3年2月に実現にこぎつけた。ついで同年3月、長崎に出張し、龍馬・中岡の積極的起用を後藤象二郎と論じ、海援隊・陸援隊を藩の外郭組織として発足させるにいたった。その後、龍馬の説く大政奉還論に賛成して、種々奔走し、後藤につぐ信頼を寄せられた。維新後は新政府に出仕し、参与・参議などを歴任して、管制の整備につとめた。「五ヶ条の御誓文」の草案を由利公正と製作した。


宮地彦三郎
宮地彦三郎   みやじひこさぶろう1836-1916 〔土佐〕 2025/4/6 up
   海援隊士。普請方から下横目、監察役で京都詰めとなる。文久3年2月龍馬が脱藩の罪を許され7日間謹慎を命じられたが、その折の警固役。龍馬の影響をうけて文久3年7月に判定を脱走。北添佶摩らと志士活動をする。慶応3年6月後藤象二郎を旅宿に訪ね、龍馬から海援隊に入ることを許される。以来、長岡謙吉は以下の大使として、八木彦三郎を名乗る。11月15日昼頃、近江屋の龍馬を訪ねたが、あげれと勧められたのを辞退して帰った。龍馬の遭難を知り、現場へ駆けつけた一人。
翌年1月長岡と共に新海援隊を結成。明治7年妹の病気を機に土佐へ帰国。以後、郷土の教育者として情熱を注いだ。享年78歳。


山内容堂
山内容堂   やまのうちようどう1827-1872 〔土佐〕 2000/1/5 up
   山内家の分家の出身で、母は下士庶民層のお扶持大工の娘だった。嘉永元(1848)年、十四代藩主豊惇の急死にともない、幕府の特別なはからいによって十五代藩主の座につくことができた。そのため、伝統の幕府への忠誠心は、彼においていっそう厚いものとなった。度量が広く豪快で、文武に多彩な才能を有し、ことに大酒家であったことは名高い。嘉永6(1853)年より吉田東洋を抜粋して藩政改革を実施した。安政年間(1854-1860)、中央政局に乗り出し、将軍継嗣問題に参画して一橋派の有力構成員となった。しかし、南紀派との抗争に敗れた結果、隠居謹慎の処分を受け、品川鮫洲の別邸に幽居閉門の日々を送らなければならなくなる。その間に、国許では東洋が勤王党に暗殺された。謹慎処分が解け、文久3(1863)年1月、京都に向かう途中、下田港におりて勝海舟より龍馬らの脱藩赦免を訴えられ、これを聞き入れた。同年4月、京都をへて国許に戻り、勤王党の弾圧を開始した。京都の八・一八政変を機に勤王党の一斉検挙に踏み切り、盟主武市瑞山以下を容赦なく死罪に処した。公武合体路線が手詰まりになった慶応3(1867)年7月、後藤象次郎から龍馬の大政奉還論を説かれ、その推進を命じた。二ヶ月後、高知に着た龍馬を引見し、大儀料五十両を授けたとも言われている。だが、大政奉還は実現したものの、王政復古のクーデターを阻止できず、佐幕方針を完遂できなかったため、維新後は官途を避け「土佐の狂太夫」と呼ばれるような生活を送った。


山本数馬
山本数馬   やまもとかずま1836-1913 〔土佐〕 2025/4/6 up
    沢辺琢磨。土佐藩士。武市半平太の妻富子は従姉妹。琢磨の父と龍馬の父は従姉妹。
 江戸の桃井春蔵の道場で修行中の安政4年8月4日、田那村作八と外出したさいに田那村が酒に酔って通行人にからみ、商人の佐州屋金八が投げ出していった風呂敷包みにあった二個の時計を道具屋に売りとがしたことから、事件が明るみに出る。藩邸で問題となり、武市半平太の尋問に罪を認めたため、武市と龍馬が佐州屋を訪れて事件を落着させた。山本はとりあえず謹慎処分と決定されるが、不名誉な事件のために切腹させられる恐れもあり、武市と龍馬の計らいで逃亡し蝦夷に渡る。
 同地で神明神宮司沢辺幸司の女婿となり、沢辺姓と神職を継ぐ。明治になってロシア人修道司祭ニコライより先例を受けてキリスト教徒となるが、禁教下のため迫害を受け明治3年には仙台で入獄し、放免後もキリスト者としての道を歩んだ。享年80歳。


吉田東洋
吉田東洋   よしだとうよう1816-1862 〔土佐〕 2000/1/5 up
   高知城下帯屋町で土佐藩馬廻吉田光四郎光清の四男に生まれる。吉田の先祖は長宗我部家重臣、さらにその遠祖は藤原秀郷で、同じ首藤山内氏の縁から上士徒歩役に取りたてられたという。山内容堂に見出され仕置役人に起用されるが、安政元(1854)年在府中、山内家親戚を酒席で殴打する事件を起こし免職。一時、土佐国吾川郡長浜村に閉居し、開塾。後藤象二郎福岡孝弟岩崎弥太郎らを教えた。のち安政4(1857)年、仕置役に再起用され、容堂を助け藩政改革をおこなう。文武館を建設し、洋学の知識を広め、物品売買に税を賦課し、幕末の藩庫を安定させてた。また『海南政典』を編纂し、藩政の基準を示した。幕末の土佐藩論は、山内容堂の公武合体策を堅持し、土佐勤王党の主張する尊皇攘夷を書生論として一蹴したので、武市瑞山ら土佐勤王党と対立した。龍馬脱藩の十余日後の文久2(1862)年4月8日、『日本外史』本能寺の変を藩主豊範に講義して下条の際、武市のさしむけた勤王党三士により要撃された。大石流剣法を心得る東洋は抜き合わせたが討たれた終わった。享年47歳。


吉村寅太郎
吉村寅太郎   よりむらとらたろう1837-1863 〔土佐〕 2025/4/6 up
   土佐高岡郡北川村の庄屋の家に生まれ、各地の庄屋を歴任して農村復興の治績をあげた。武市瑞山の門に出入りして土佐勤王党の血判に加わり、文久2(1862)年、久坂玄瑞から伏見挙兵計画の情報を得て脱藩した。この脱藩は龍馬より二十日ほど早く、土佐勤王党の第一号とされる。その後、主として長州藩尊攘派と交際し、いったんは土佐に送還されたが、文久3(1863)年、公卿中山忠光を擁して天誅組を結成。総裁に任じて倒幕の兵をあげ、大和五条の代官所を襲った。が、諸藩兵に攻められて大和鷲家口に戦死した。


渡辺弥久馬
渡辺弥久馬   わたなべやくま1822-1881 〔土佐〕 2024/10/12 up
    斎藤利行のこと。十三代土佐藩主山内豊てるの御側物頭となり、おこぜ組の一員として活躍。のち反対党のため失脚。嘉永年中、吉田東洋に抜擢され、新おこぜ組の一員となる。慶応3年、イカルス号事件の際、後藤象二郎を扶けて談判要員として活躍。
 慶応3年9月24日、龍馬が長崎より銃器を運んで高知浦戸へ入稿した際、龍馬からの書状を見た渡辺は時勢切迫をしり、銃器購入を決めた。
 維新後は斎藤利行に改名。明治3年2月刑部大輔、5月参議。明治8年7月元老院議官。享年60歳。


                                       


トップメニューへ
龍馬亡き後におりょうが語ったこと(その3)
真相は!龍馬はなぜ寺田屋遭難時にピストルの弾倉を落としたのか?
竜馬がゆくの次に何を読む?
レシピ公開!龍馬のカステラを再現しよう!
ファンはショック!龍馬は梅毒だったのか?

耳で読む千里駒後日譚(3)おりょうのインタビュー記事
耳で読む龍馬の手紙、日本第一の人物勝麟太郎殿の弟子になり(現代語訳あり)
耳で読む千里駒後日譚(3)おりょうのインタビュー記事