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◆ 後藤象二郎 ◆
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後藤象二郎 ごとうしょうじろう1838-1897
〔土佐〕
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2000/1/5 up
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土佐藩士正晴の子。早くから父をなくし、姉の夫である吉田東洋に教育された。東洋が暗殺されてからしばらく不遇の時期が続いたので、江戸に出て航海術などを学んで時期を待っていた。山内容堂によって尊攘派が追放されると土佐に帰り、大監察として容堂の右腕となり、武市瑞山以下土佐勤王党の弾圧に乗り出した。しかし時代は変わり、長州は藩論を尊攘から討幕へ進め、薩摩も公武合体は時代遅れと討幕へと向かい、薩長同盟が成立した。土佐でも討幕には踏み切れないものの、時勢の転換に何とか対応しなければならないとの考えが強まった。慶応3年(1867)、龍馬と会談して、藩論の転換を決意した。象二郎は龍馬・中岡慎太郎の脱藩を赦し、それぞれ海援隊・陸援隊の指揮を委ねて藩への協力を求めた。その後、龍馬と土佐藩船水練(夕顔)で京都にのぼったが、この船中で龍馬が記述したのが大政奉還のための「船中八策」であった。土佐に帰ると象二郎はただちに登庁して容堂に会い、大政奉還の腹案を説明した。容堂も長州・薩摩を出し抜き土佐が藩が一気に政治の表舞台にあがれるこのアイディアを藩論として決定した。明治新政府では参与、参議に任じられたが、征韓論に敗れて野に下り、民選議員設立の運動をした。後に板垣退助らと共に自由党を結成、通信大臣・農商大臣とふたたび政府の要職に就いた。病死したとき、明治天皇は後藤に哀悼の勅語を賜った。
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