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◆ 島津久光 ◆
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島津久光 しまずひさみつ1817-1887
〔薩摩〕
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2000/1/5 up
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薩摩藩国父。大政奉還が実現した翌日、龍馬が起案した「新官制擬定所」に山内容堂・松平慶永らと並びその名があげられている。薩摩藩主島津斉興の第三子で、生母は斉興の側室お由良。兄島津斉彬の遺言によって藩主となった我が子忠義を後見し、「国父」と呼ばれて藩政の実験を握った。兄斉彬のやり方を踏して、中央政権進出を志向し、文久2(1862)年に挙兵上京する。伏見寺田屋に集合した尊攘派を武力弾圧して公武合体路線の旗幟を鮮明にするとともに、朝廷から幕政改革命令を引き出すことに成功した。同年、一橋慶喜が将軍後見に、松平慶永政治総裁職に就任した一連の幕政改革は、上の勅旨を奉じて江戸に赴いた久光の働きによるとこらが大きい。だが、その帰途、家臣がいわゆる生麦事件をおこし、久光の意図とは逆に国内の攘夷熱を煽り立てることになった。ついで、生麦事件にたいするイギリスの報復として、薩英戦争が生じ、その過程で西郷隆盛・大久保利通らの倒幕派が成長し、藩政に対する久光の影響力はしだいに弱体化した。慶応3(1867)年5月、長州処分などに関する四侯会議が狂とで開かれ、それが幕末政局における久光の最後の活躍の場となった。だた、四侯会議は失敗に帰し、それを境に武力倒幕が勢いを増した。維新後は政府の開明政策に反対し、明治8年、官を辞して正解から引退した。
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