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◆ 三条実美 ◆
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三条実美 さんじょうさねとみ1837-1891
〔公家〕
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2000/1/5 up
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右大臣三条実万(さねつむ)の四男。母は土佐藩山内豊策(とよかず)三女紀子。御所石薬師門近くの梨木町に誕生。6歳まで洛北の豪農楠六左衛門のもとで養育され、勤王家富田織部により教育を受けた。嘉永7(1854)年2月、兄公睦の死により実万の嗣子となる。文久2(1862)年8月、岩倉具視ら「四奸臣」弾劾上書を提出した。10月左近衛権中将に叙せられ攘夷督促の勅使となり、姉小路公知を副使に、土佐藩主山内豊範や武市瑞山たちに護られて江戸へ下った。12月議奏、国事掛となり将軍家茂の誓書を携えて帰京。尊攘派勢力の頂点となったが、翌文久3(1863)年8月18日会津薩摩が政変を起こし、参朝禁止処分を受ける。三条ら七卿は都落ちとなり、長州へ下った。西郷隆盛らによって征長軍解兵を条件として、長府功山寺より太宰府延義王院へ移されたのは慶応元(1865)年正月。三条は幕末までここで滞留することを余儀なくされた。龍馬が九州から北上し、延義王院を訪ねたのはその年の5月で、同席した東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は「偉人なり奇説家なり」と龍馬を評している。中岡慎太郎が京都に幽閉中の岩倉具視のもとへ三条の親書「予西竄の後百事不如意、卿(岩倉)、宜しく中興之業を翼賛すべシ」を携えたのは、慶応3(1867)年3月であった。公卿のトップの和解により王政復古の素地が作られた。維新政府では、議定、副総裁、右大臣となる。明治4(1871)年廃藩置県のあと太政大臣に任ぜられ、征韓論をめぐる閣議対立の処置で苦悩する。三条家は摂家に次ぐ清華の一つで笛を家業とし、管紘、香道、和漢の学に優れ、歌集に「西瀕遊草」などがある。
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