徳川家康は江戸幕府を開いた人、宮本武蔵は剣の達人、紀伊國屋文左衛門は元禄の商人などと○○○をした□□と一言で説明できるのが本来、歴史の偉人ではないでしょうか。ところが我らの尊敬する坂本龍馬はなかなか一言では説明できない人物なのです。龍馬ファンでない知人などに「龍馬ってどんな人?」と聞かれるといつも困ってしまいます。こんな時、一言で説明できないので自然と話が長くなってしまい、それほど興味がなく社交辞令で質問してきた相手は退屈になってしまうのです。このページを見ていただいている方は多少なりとも興味がある方でしょうから、じっくりご覧下さい。_(._.)_


 生まれ 1998/06 up 

 天保6年(1835年)、土佐藩で生まれる。母が龍が体内に入る夢を見た後に龍馬が生まれ、背中に龍や馬のように毛が生えていたところから『龍馬』と命名されたと小説やマンガで紹介されておりますが、これは龍馬が有名になってからの後付けのお話ですよね。(^_^;)


 泣き虫・いじめられっ子・落ちこぼれ 1998/06 up 

 幼少の頃は泣き虫で、友達と遊んでもすぐに泣かされて帰ってきたようで、楠山庄助塾もできの悪さですぐに退塾させられました。
 と龍馬を語る小説・マンガなどはほとんどが龍馬の幼少時代は、鼻たれの落ちこぼれということになっていますが本当なんでしょうか。
 龍馬は14歳で日根野道場に入門するまでは、楠山庄助塾に入って退塾させられたこと以外ほとんど資料がないのです。楠山庄助塾退塾の原因も、よく小説やマンガなどで楠山庄助が「お宅のご子息は手におえません、お手元で手習いさせてはいかがでしょうか」と父である八平に勧告に来たと書かれてますが、真実は塾で龍馬が上士の子と喧嘩になり、上士の子が刀を抜いたので楠山庄助がその子を退塾させたが、八平が上士に気を使い「喧嘩両成敗」だからと言い、龍馬をやめさせたのです。

 しかし、龍馬が小便たれだと裏付ける文章が残ってます。坂本家の本家である才谷屋に嫁いだ内田さわ(昭和元年没、享年89歳)さんの孫である宍戸茂(明治24年生まれ)さんが、旧高知県立高等女学校の明治四十一年卒業生同級会誌『長路』(昭和42年発行)に「坂本龍馬と私」という一文を発表して次のように書いています。
龍馬の話は一丁目の小便たれ、権平さんはよく物の分かったひと、乙女姉さんはお仁王様。
 確かに、身内の子孫が「小便たれ」と表現はしていますが、内田さわさんは龍馬より3つ年下で、龍馬が14歳まで寝小便をしていたことを知っているはずもなく、聞き伝えをさらに孫に伝えたものでです。どんな人間でも、自分の生まれたときからを知っている親戚の叔父さんや叔母さんに「あの鼻たれ」とか「小便たれ」ぐらい言われたことはあると思います。この一言で龍馬がとんでもない落ちこぼれであったと決め付けるのは危険です。
 小説としては落ちこぼれが、成長して大成功するといったストーリーの方が面白いが、これは伝説であると私は考えます。そう、龍馬は残念ながら落ちこぼれ出はなく、『凡人』であったと見るほうが正しいのではないでしょうか。

参考文献:龍馬 最後の真実  菊池明著 筑摩書房



 郷士 2000/02/04 up 

 江戸時代には士農工商といった身分制度がありましたが、土佐藩では「士」の中でもさらにランクわけがされていて、坂本家は藩主に拝謁することもできない「郷士」という位でした。
 普通、「郷士」とは武士でありながら平常は農村地帯に住んで、農業を営んでいるものの事を言います。しかし土佐藩ではちょっと違っています。土佐は戦国時代、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)が支配していました。しかし、その息子の長曾我部盛親(ちょうそかべもりちか)の時、関ケ原の合戦(慶長5年・1600年)で西軍の石田三成に味方して敗れ去ったので、それに変わって土佐の藩主となったのは、東軍についた山内一豊でした。山内一豊はそれまでは遠州掛川5万石の大名に過ぎなかったのですが、土佐藩は20万国以上の大国だったので、国を治めるには連れてきた家来だけではとても足りませんでした。また長曾我部氏の遺臣、いわゆる一領具足は農民となった後に、新政権への抵抗として浦戸一揆などを起こしました。乱の平定後に入国した山内一豊は、桂浜で相撲興行を催して、一領具足73人を捕らえ、種崎の浜で磔に処しました。それ以降も弾圧が続けられたのですが、やがて一領具足の懐柔が山内家の抱える根本的な課題となりました。そこで、長曾我部家の旧家臣団をも家臣に取りたてたのですが、もとの家来から不平が出ないように、正式な武士と区別するため郷士という身分を作ったのです。


 北辰一刀流の剣の達人? 1998/06 up 

 土佐藩の日根野道場で「小栗流和兵法自目録」一巻を伝授されています。江戸では北辰一刀流千葉定吉(千葉周作の弟)に入門しました。龍馬に与えられた北辰一刀流の目録は現存するものは「薙刀(ナギナタ)」のものだけですが、江戸の三大道場のひとつ桶町の千葉道場で塾頭をしていたのだから、それなりの腕だったと考えられます。

 私が龍馬を好きになった30年ほど前には、坂本龍馬は北辰一刀流の達人というのが定説でした。 ところが最近出版の書物には、それを否定するものが多くなっています。その理由のひとつに、龍馬に与えられた北辰一刀流の目録に『長刀』という文字があるのですが、最近の研究で長刀とは刀のことではなく『薙刀(ナギナタ)』のことだとわかったのです。そうです、時代劇では薙刀は女性の武芸としてよく出てきますよね。これで、俄然「龍馬達人説」の風向きが悪くなってしまいました。また最近では、二度の江戸剣術修行も実は「砲術修行・藩の海岸警備要員」という説が強くなっているみたいです。
 では龍馬は剣術が弱かったのでしょうか?そんなことは絶対にありえません。土佐藩の日根野道場では「小栗流和兵法自目録」一巻を伝授されていますし、江戸の三大道場のひとつ桶町の千葉道場で塾頭をしていたのだから、それなりの腕だったと考えられます。
ゴルフの腕前ランク


石川遼や片山晋呉
シード権を持つ約50人
トーナメントに参加
レッスンプロ


シングルプレイヤー
80台で回る人
90台で回る人
100を切れない人
 そこで私はひとつの疑問にブチ当たりました。(-_-;)
 『達人』と『強い』の違いはどれくらいなんだろうか???
 当時、武士は100%近くが剣術を学んでいたでしょうから、そのうち上から何番目までの人を達人、もしくは強いと定義できるのだろうか???
 その時、思い浮かんだのがゴルフでした。私はお付き合い程度にしかしないので、ゴルフは下手なのですが、日本には競技人口も多く、これをたとえに考えるとなかなか解かりいいのではと思いました。
 あるゴルフのホームページを拝見しますと、日本のゴルフ人口は1000万人いるそうです。ところがそのうちの95%が左の表のBの人たちなのです。つまり、上から6行のランクに入る人たちは、ものすごく強いのです。
 すごく強引なのですが、龍馬は桶町の千葉道場で塾頭をしていたので、ゴルフで例えると最低レッスンプロ以上の腕前はあったのではないでしょうか。石川遼や片山晋呉のランクではないにしても、龍馬は強かったと考えたいのは、私が龍馬贔屓だからなのでしょうか....(^_^;)


 勝海舟の弟子 1998/06 up 

 千葉定吉の息子重太郎と二人で勝海舟を斬りに行ったが、勝の話しに感銘を受けその場で弟子入りした。

 と小説・マンガでは定番中の定番ですが、本当なんでしょうか。
 龍馬が勝海舟を訪れたのは、文久2年(1862)の10月のことですが、同年閏8月26日に松平慶永に拝謁し勝海舟・横井小楠への紹介状をもらっています。ドラマなどでは、尊攘派の龍馬が勝海舟の開国論がけしからんと訪れたことになっていますが、その2ヶ月前にはバリバリの開国派である松平慶永に会っているのです。ですから勝海舟と初対面のときには、すでに龍馬は開国派になっていたと思われます。松平慶永が「開国派だから斬ってしまえ」と言うような危険な人物を同士に紹介するわけが無いでしょう。

 勝海舟が「あいつは俺を斬りに来たが、話をしたらわかってくれたよ」というような発言をしているのですが、これは勘違いか、自分を度量のある人間に見せたくて言った愛すべきホラだったのではないでしょうか。


 脱藩浪人 2000/11/14 up 

 当時所属の藩を勝手に出ることは、社会主義国からの亡命のようなもので大罪でした。また給料も貰えなくなるので、サラリーマンが会社を辞めるようなものです。幕末という背景があったのでこのような立場の龍馬でも活躍できたのでしょうが、それにしても当時の若者はバイタリティーがあったのですね。

【龍馬脱藩の道】
 文久2(1862)年3月7日、のちに天誅組として大和に挙兵する吉村寅太郎が、武市瑞山に久坂玄瑞らの倒幕挙兵への参加を求め、拒絶されたために脱藩しています。また、同じ頃に土佐郡潮江村の地下浪人である沢村惣乃丞も脱藩し、吉村と合流したのち、同志を募るため下関から土佐へ引き返して龍馬を勧誘したものと思われます。

3月24日国境を目指し、出発する。
3月25日手引きをした沢村惣乃丞と共に高岡郡檮原村の那須信吾の家で一泊。信吾は養父の俊平とともに、脱藩の協力する。
3月26日那須父子のの案内で四万川沿いを進み、国境の宮野々関を突破。信吾はここで引き返す。小屋村から榎ヶ峠・横通り・封事ヶ峠・三杯谷・日除・水ヶ峠を経由して、泉ヶ峠にて一泊。
3月27日泉ヶ峠を出発した、龍馬・沢村・那須俊平は、伊予大洲藩領の北表村へ入り、宿間村へ。俊平はここで引き返した。龍馬らは宿間村を経て長浜の冨屋金兵衛宅に一泊。
3月28日長浜港から船に乗り、上関へ。
3月29日船にて上関から、三田尻へ。
3月30日陸路で三田尻から下関へ。
4月 1日下関の白石正一郎宅着。

参考文献:別冊歴史読本「土佐の風雲児 坂本龍馬」〜龍馬脱藩の道を探る〜 村上恒夫著 新人物往来社
別冊歴史読本「坂本龍馬新聞」 新人物往来社
歴史読本クロニクル3「坂本龍馬の33年」 新人物往来社



 神戸海軍塾の塾頭? 1998/06 up 

 「竜馬がゆく」や「お〜い!竜馬」では微妙な言い回しをしておりますが、龍馬は、勝海舟『私塾』の塾頭でした。


 日本ではじめて株式会社を作った? 1998/06 up 

 『はじめて』が龍馬なのか、『株式会社』なのかという議論は必要ですが、長崎で『亀山社中』という浪人集団を作り、武士は商売をしないものという社会通念に反し、諸藩を相手に商売をはじめました。


 一介の浪人が黒船を手に入れた 1998/06 up 

 ペリーの黒船がはじめて来た時、自国との造船技術のあまりの差に日本中が驚いたのですが、これを現在のレベルに置きかえると、「宇宙からUFOに乗って宇宙人が来た」くらいのショッキングな事件だったと思います。そのUFOにも相当する『黒船』を、ただの浪人が(個人の所有物ではないにしろ)手にいれてしまったのです。


 薩長同盟を成立させた 1998/06 up 

 同じ倒幕派なのに、犬猿のなかであった薩摩藩と長州藩を仲直りさせ、同盟を成立させました。これによって明治維新が成立し得たのです。薩長同盟成立は龍馬一人のお手柄というわけではありませんが、やはり龍馬なくしては成立しなかったでしょう。


 日本ではじめて新婚旅行をした 1998/06 up 

 京都で伏見町奉行配下に襲撃され負傷した傷の治癒のためもあり、妻のお竜と鹿児島へ行き、塩浸温泉・霧島山で遊んだことが日本初の新婚旅行とされています。


 靴(シューズ)を履いていた 1998/06 up 

 当時の日本人は足袋・下駄・草履・雪駄・草鞋などを履いたいましたが、写真でみてもわかるように靴(シューズ)を履いています。単にお洒落だったのか、履物さえも差別する土佐藩での暮らしの反動なのか、本人に聞いてみなくてはわかりません.....


 複雑な思想 1998/06 up 

 当時は、外国人を討払い幕府を倒し天皇中心の国をつくることを夢見る『尊王攘夷派』『倒幕派』という考えの人達と、鎖国をやめ国を開き今まで通り幕府中心の体制を維持するという考えの『開国派』『佐幕派』という人達がいて、普通はどちらか一方に属するするのがあたりまえでした。しかし、龍馬は倒幕派と言いながら幕府の高官ともつきあいがあり、単純に○○派とはいえない存在でした。


 人を斬ったことがない 1998/06 up 

 龍馬は北辰一刀流の達人であったにもかかわらず、幕末の風雲の中、一度も人を斬ったことがありませんでした。ピストルで撃った(射殺した)ことはありますが.....(^_^;)


 船中八策立案 1998/06 up 

 維新後に明治政府が発布した『五ヶ条御誓文』の原型である『船中八策』を後藤象二郎を通じ、藩主山内容堂から将軍家に提案させたのも龍馬です。


 暗殺 1998/06 up 

 慶応3年(1867年)11月15日(誕生日といっしょ)夜九時過ぎ、同席の中岡慎太郎と刺客に襲撃され明治維新を見ずして亡くなりました。



参考文献 ■ 坂本龍馬 知れば知るほど (実業の日本社) 山本大監修
■ 幕末・維新 知れば知るほど (実業の日本社) 勝部真長監修
■ 坂本龍馬おもしろ事典(新人物往来社) 百瀬明治著
■ 坂本龍馬事典 (新人物往来社) 百瀬明治著
■ 幕末維新人物総覧典 (秋田書店)
■ 龍馬最後の真実 (筑摩書房) 菊地明著
■ 坂本龍馬の謎 (新人物往来社)
■ 坂本龍馬青春と旅 (旺文社) 宮地佐一郎著
■ 坂本龍馬戦国・幕末の群像 (旺文社)
■ 別冊宝島よみがえる幕末伝説 (宝島社)

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